甘口辛口

映画「太陽」を見て

2007/9/21(金) 午前 8:20

                    (WOWOWの解説記事)

戦争中は天皇のプライベートな話は厳重に封印されていて、一体、昭和天皇とはどのような人物なのか、国民には皆目見当がつかなかった。日本人が天皇の肉声に初めて接したのは終戦時の「玉音放送」だったが、この時の昭和天皇は、奇妙な抑揚をつけて詔勅を朗読しただけだったから、その音声を通して天皇の人柄を判断することは出来なかった。

戦後、昭和天皇の人柄についてちゃんとした感想を述べたのは、「五勺の酒」を書いた中野重治だけだったと思う。

中野重治は、戦争中にニュース映画で昭和天皇が満州国皇帝を出迎える場面を見て、天皇に個人として好意を感じたのであった。そのニュース映画に映し出された天皇は、敬礼を交わすために満州皇帝以下随行の満州国高官たちの前を順々に移動したが、この時彼は一人一人と正対して向き合うために小刻みに足を踏み換えていたという。これを見て、中野は、天皇が律儀で真っ正直な人間だと感じたのだった。

一昨夜、WOWOWで、ロシア、イタリア、フランス、スイスの4国が協力して製作した「太陽」という映画を見ているうちに、中野の「五勺の酒」を思い出した。イッセー尾形が扮する昭和天皇が、外国人カメラマンたちから、「チャーリー」「チャップリン」と呼ばれる場面を目にしたら、中野作品が頭に浮かんできたのだ。

日本人の感覚からすると、昭和天皇とチャップリンは直ぐには結びつかない。ところが、カメラマン達は、天皇を撮影しながら口々に彼をチャーリーと呼んだだけでなく、写真撮影を終えて天皇に別れをつげる時にも、「チャーリー、グットバイ」と声を掛けている。天皇自身も不思議に思って、その場を仕切った米兵に、「私は本当にチャップリンに似ているか」と質問している。

カメラマン達が、天皇を見てチャップリンを連想したのは、天皇の機械仕掛けのような歩き方や所作が有名な喜劇俳優を思わせたからなのだ。

私は昭和天皇が満州国皇帝を出迎える時のニュース映画を見ていない。けれども、一人一人の前に正確に立とうとして天皇が小刻みに足を運ぶ場面はハッキリと想像できる。天皇は、きっとチャップリン式の動作をしたにちがいないのだ。カメラマンの前に立ったときの天皇の振る舞いにも、チャップリン式の喜劇的な所作を思わせるものがあったのである。そういえば、終戦時の「玉音放送」にしても、自然な感じを欠いている点で、喜劇的だったといえないこともない。

日本人は昭和天皇の言動にチャップリンを思わせる滑稽なところがあっても、それは天皇が世慣れていないためだとして、温かく見守っている。戦後に天皇の物真似をする日本人が増えたけれども、それも大体において好意的な物真似だったのである。しかし、外国人には、その辺の微妙な違いが理解できないのだ。

そのほか、映画を見ていて記憶に残ったのは、昭和天皇とマッカーサー占領軍司令官が面会する場面だった。その場面で、天皇はさほど突飛なことをしたわけではなかった。常人と比べて変わっていたところといえば、ドアの前まで歩いて行って、誰かが自分の代わりに戸を開けてくれるものと期待して、何時までもその場で動かないでいることくらいだった。が、マッカーサーと二人でいるときの天皇は、人形じみていて何かしらおかしかった。だから、マッカーサーは、天皇と別れた後で、彼のことを、「子どものようだ」と批評するのである。

この映画を企画したロシア、フランス、イタリア、スイスの関係者たちは、一体、「太陽」という題名のもとで、何を描こうとしたのだろうか。これらの四つの国は、君主制をとっていない。共和国に生きる市民として、君主制国家の非合理性や滑稽さを強調しようとしたのだろうか。

WOWOWのパンフレットは、この映画について敗戦前後の昭和天皇の内面に分け入り、その孤独と苦悩を描いたものだと解説している。確かに、映画には天皇の孤独が描かれている。天皇は侍従や召使いに手厚く守られ、彼らから「日本国民は、玉砕覚悟で天皇を守ります」と激励される。すると天皇は、「では私が最後に残る日本人になるわけだね」とつぶやくのだ。そして、「誰も私を愛してはいない。私を愛してくれるのは、皇后と皇太子だけだ」と独語する。

天皇は一人になると、アルバムを取り出して皇后と皇太子の写真をしみじみと眺め、皇太子の写真にひそかに接吻するのである。

天皇の苦悩もたっぷり表現されている。映画は天皇の苦悩を表現するために、病人のように引きつる天皇の口辺や、唐突に発せられる奇妙な発言を映し出す。彼は御前会議に出席して、政府の要人達の前で明治天皇の和歌を引用したかと思うと、謎めいた質問を一同に浴びせかけて、出席者を困惑させる。生物学の研究室では、天皇は助手に研究対象の観察結果を口実筆記させながら、突然、日米戦争の原因はアメリカの排日政策にあったなどと言い出すのだ。

敗戦前後の天皇に関するさまざまなエピソードを羅列したかに見えるこの映画にも、一貫したテーマが流れている。天皇の神性に対する天皇自身の戦いというテーマだ。

外国人にとって最もわかりにくいのは、近代教育を受けた日本人がどうして天皇を「生ける神」「世界を照らす太陽」と信じ得るかということなのだ。生身の人間を神と信じる日本人の愚かしさが、外国人には不思議でならないのである。

そこで彼らは考える。思想の自由を禁圧されている一般日本人が、天皇を「現人神」と考えるのはやむを得ないかもしれない、だが、神様にされた天皇の方は、やりきれなかったはずだ。そこで、映画監督は、昭和天皇と面会したマッカーサーに、まず第一に、「現人神」と仰がれるのは、どんな気持ちかと質問させるのである。すると、天皇は、「楽ではないです」と短く答える。

映画の製作者達は、天皇が戦争中から内心で「現人神」という衣装を脱ぎたがっていたという前提に立ち、そのための天皇の空しい戦いを描いて行くのだ。天皇は映画の冒頭部分で、早くも自分を神様扱いにする侍従に、「私の体の何処に他の人間と変わったところがあるというのだ」と詰め寄っている。

天皇は戦争が終わり、疎開していた皇后が戻ってくると、これからはもっと楽に生きられるようになるよと約束する。天皇が、「人間宣言」を布告して普通の人間になることにしたと告げたのだ。それを聞いて、皇后も目を輝かして喜ぶのである。

しかし、映画では天皇の「人間宣言」は結局日の目を見なかったということになっている。これからは、神ではなく人間として生きられると喜んでいる二人のところに、侍従が天皇の命を受けて人間宣言の録音版を作ることになっていた役人が自決したと報告に来るのだ。天皇が侍従に自決を止めなかったのかと質問すると、侍従は、「止めませんでした」と答える。すると、天皇は皇后のなじるような視線を浴びながら、侍従に一言も抗議することなく、悲しそうに黙ってしまうのである。

この映画を見ると、外国の人間が日本人をどう見ていたか、よく分かるのだ。日本人は、金正日の前にひざまずく北朝鮮の人々を眺めて笑うけれども、戦前の日本人はそれ以上にもっと広く笑われていたのだ。同じ人間でありながら、跪拝する人間と跪拝される人間がいることほど滑稽なことはない。私はこの映画を見ていて、戦時下の宮廷生活を「荘重なるマンガ」と感じたが、「荘重なるマンガ」は今も続いているのである。