甘口辛口

「黒い部屋の夫」というブログ(その6)

2009/11/13(金) 午後 11:17

<「黒い部屋の夫」というブログ(その6)>


警察沙汰の事件を起こしてから、夫は目立っておとなしくなった。彼は義父母からも注意されたらしく、いつの間にかクルマのハンドルも戻されていた。義父母は、これまで通り息子のところに交代で泊まり込んで、息子の様子を見守ることを続けている。

定期的に夫のマンションに娘を預けに行っているエリは、夫が運動不足のため、以前にも増して肥満体になったことに気がついた。体重は100キロになっているとのことで、ズボンのボタンがはじけそうだった。それに顔色が悪かった。

夫の嫌がらせもなくなり、エリがあまり彼のことを気にとめなくなった頃だった。ふと携帯を覗くと、義父からの着信が溜まっている。それでエリは義父に電話してみた。

「済みません、何度も着信いただいていたのに出られなくて。何かありましたか」」
「ええ、急なんですが、息子が亡くなりまして」

はじめは義父が何を言っているか分からなかった。だが、次の瞬間、彼女は、(ああ、ついにやってしまたのか)と思った。

「今回のことは、仕事がキッカケだったんです。エリさんには、何の責任もないことですから、心配しないで」と義父は言った。

夫が飛び降り自殺をしたのは、会社でのトラブルが原因だと義父は言う。

若い社長というのは仕方のないもので、精神疾患を持つ夫の弱点につけ込んで、僅か6万円の月給でウエブサイト作成の仕事をさせるだけでなく、夫に大型免許を取らせ、マイクロバスによる人員輸送の仕事をさせていた。社長は、夫に無理な仕事をさせておいて、白々しく言うのである。

「もう君は病気じゃないんだから、頑張って貰わないと」

夫がいくら頑張って結果を出しても、次の仕事が用意されている。人員輸送の仕事を済ませて、事務所の机に這うようにしてたどり着くと、もう何をする気もなくなる。社長に声をかけられても、返事もできない。すると社長は、「そんなことでどうする」と活を入れるのだ。

皆の前で社長から叱責され、怒鳴られ、自尊心をズタズタにされて帰宅する。夫はもう翌日は会社に行く気になれないのである。それで、何もかもイヤになって布団をかぶって一日中寝ているのだ。最初に病気になったときと同じであった。

何時の間にか、マンションに寝泊まりするのは、義父の役目になっていた。一流企業の役員をしていた彼にとって、会社に無断で一週間も休み、病気の診断書も出さない息子の行動は許し難いものに見えた。それで、彼は息子に少しきつい口調で注意したのである。

「欠勤するなら、ちゃんと会社に連絡しなければダメだぞ。休みが長くなるようだったら、病院から診断書を貰って来て提出するんだ」

父の言葉を顔を真っ赤にして聞いていた夫は、いきなり部屋から飛び出し、外階段の手すりから身を躍らせて飛び降りたのだった。体重100キロの肥満体ではひとたまりもなかった。義父は階下に駆け降りて血だらけの息子を抱きしめ、携帯で救急車を呼んだが、もう手遅れだった。

葬儀の席で、喪主の義父は次のような挨拶をした。

「息子の生涯は短く、また最後の数年は病気で辛いことの方が多かったようです。でも、彼は一生懸命であったし、家族の我々も出来ることはしてきたという自負があります。ベストを尽くしたのだから、あとは天命だと思って受け入れます」

葬式に連なっていたエリは、(私はベストを尽くしたと言い切れるだろうか)と考えた。元夫の死では忌引きが取れないので、彼女は翌日出社した。机に座って仕事を始めようとしたら、目に熱いものがこみ上げてきた。泣くまいとしたが、表面張力で支えきれなくなった涙がぽろりと頬を伝わって落ちた。

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上下二冊になっている「黒い部屋の夫」を読んだら、離婚に至るまでの当事者の気持ちが初めて理解できたように思った。離婚するためには、結婚するときとは比較にならないど多量のエネルギーが必要だといわれている。この本を読むと、離婚をめぐって行きつ戻りつする関係者の心理が、実によくわかるのである。人はバツイチと簡単に口にするけれども、当事者から見れば離婚が成立するまでの道のりは、茨の道を歩むに等しいほど苦痛に満ちているのだ。

この本の後書きで香山リカは、「すべてを書き尽くした著者の勇気に敬意を表したい」と言っている。原作はまさに、「すべてを書き尽くした」という感がある。こちらもそれを伝えようとして、つい長々しい紹介記事を書いてしまった。

だが、私は著者の行動を全面的に肯定しているいるわけではない。このブログを発表した当時、読者から批判的なコメントがかなり多数寄せられたという。「墓を暴くようなことをするなな」「自分の立場ばかりを書いている」というような批判だけでなく、「計画殺人」というようなものまであったらしい。

世間には、ここに出てくる「元夫」よりもひどい夫がいくらでもいる。元夫は結婚前にも結婚後にも借金をこしらえていたようだが、結婚前の借金はエリが祖母から貰った祝い金で皆済される程度のものだったし、結婚後に発覚した借金も百万円台のものだったと推測される。エリは物堅い家庭で育ったので、肝をつぶしてしまったが、富裕な実家が背後に控えていることを考えると、この程度の借金はあまり驚くにたりないのである。

夫は家族に暴力を振るうようなことはなかったし、浮気もしていない。問題になるのは、うつ病による症状があるだけなのだ。だから、エリ自身もこう書いているのである。

「夫を直視しなければ、意外と日々は平穏だ。
 真っ黒な部屋でも、お客さんが来る予定がないから平気。真っ黒な夫でも、寄り添って 歩くわけじゃないから平気。食事だって、もう夫や子供の好き嫌いになんて付き合って あげない。自分の食べたいものを、バランスよく、彩り豊かに」

彼女は、自分のストレスについて、「夫に期待するが故に発生するストレス」だとハッキリ書いている。夫の行動は、我慢しようとすれば、何とか我慢できるレベルのものだったから、彼女は離婚すべきかどうか悩んだのである。夫に死なれてから、彼女が苦しんだのも同じ理由からだ。

彼女が「墓を暴く」ようにしてブログを書いたのは、自分を正当化するためではなく、自分と夫との関係を直視し、二人の結婚が悲劇に終わった理由を究明するためだった。そして自分なりに納得できるところがあれば、夫に死なれた悲しみや悩みも癒されるのである。

しかし本を読んだところでは、彼女の傷が癒されるにはもう少し時間がかかりそうである。