統一教会の文鮮明教祖も、「摂理」教団の鄭教祖も、自らをメシア(救世主)と称している。キリスト教では、神の意志を受けて世界を救うメシアはイエスだけということになっているけれども、文教祖も鄭教祖も胸を張って我こそはイエスと同格の人間だと自称しているのだ。
日本にもペテン師は数多くいる。だが、さすがに自分をメシアと宣伝するようなペテン師はいない。この辺に日本人の民族性があらわれているかも知れない。
文鮮明教祖はなかなかの「理論家」で、旧約聖書をひねくり回して、サタンの策謀だの、イブの堕落だの、まるで妖怪小説のような教理をでっち上げる。鄭教祖の方は文鮮明教祖ほどの創作力がないので、独自の教理を案出できず、理論面ではほとんど文鮮明に依存しているといわれる。
世界を救済するという触れ込みで文鮮明教祖のやったのは、学生達を手足のように使ってインチキ商法を実行させることだった。結局、彼は物欲のかたまりで、欲しかったのは金だけだったのである。
「摂理」教団の鄭教祖は、文鮮明のミニチュア版だからスケールがぐっと小さくなる。その欲望が女あさりという一点に特化している点など、かわいらしいといえば言える。
統一教会にしろ、摂理教団にしろ、誰の目にもインチキと分かる教団に、一流大学の学生がぞろぞろ入信するのは、なぜだろうか。しかし、これは不思議でも何でもないのだ。一流といわれる大学に入学してくる学生の多くは、「受験勉強の専門家」であって、真の意味の教養や世間智に欠けているからだ。彼等は、精神的な栄養失調状態にあり、内面的な飢餓を埋めてくれそうなものには何でも飛びつくのである。