甘口辛口

坂口安吾の炯眼

2006/9/30(土) 午後 5:59

私は若い頃から坂口安吾が好きで、彼について何度も人に語ったり、文章にしてきたきたけれども、まだその作品を半分も読んでいない。多少懐に余裕が出てきて、好きな作家の全集を買いそろえることができるようになっても、これまで安吾の全集を買う気にはならなかった。

何故かというと、安吾の作品で読むに値するものは中期に集中しており、初期のものや晩年のものは、それこそ箸にも棒にもかからぬ悪作が多いからだ。全集を購入して「吹雪物語」のようなつまらぬ作品を読まされると思うと、手を出す気がしなくなるのである。

しかし、中期、つまり全盛期の彼の作品には、実に良いものが揃っている。世俗に帰属することを拒み、世間の枠外で生きた点で、安吾は大杉栄に似ている。大杉も安吾も世間的常識に縛られることなく生きた。それ故に、彼らは日本社会のゆがみを浄玻璃にかけるように明晰にとらえることができたのだった。死後になっても二人に多くのファンが付き、その作家的生命は今後も末永く続くだろうと推測されるのはこのためである。

安吾は20代で新進作家として認められたが、その後、十数年も忘れられていた。それが、昭和21年「堕落論」を雑誌に載せたことで一躍脚光を浴びることになる。彼は、夫を戦場で失った「靖国の妻」が別の男に心を移したり、特攻隊の生き残りが闇屋になったりすることを、堕落ではなくて人間の本来相に戻ったのだとして弁護する。戦争中、仮面をかぶって生きていた国民は、今、堕落することによって人間本来の存在仕方に回帰したのだ。日本人よ、堕落せよ、そして本来の健康な人間性を回復せよ。

「日本文化私感」も、古美術・古建築を礼賛する日本主義者の通説を、鎧袖一触で論破する。形あるものは必ず滅びる。いずれ跡形無く消えることになる法隆寺や東大寺に恋々として保存策に腐心するよりは、次々に新しく生み出される現代の美に注目したらどうか。ガスタンク、小菅刑務所、ドライアイス製造工場、みなそれぞれに美しいではないか。

安吾は政治的な発言もしている。彼は左翼でも、マルクス主義者でもなかったが、守旧派の心胆をさむからしめるような発言をしているのである。
マッカーサー元帥に関する安吾の談話。

<彼(マッカーサー)は果敢な実験者であった。・・・・・共産党も公認したし、農地も解放した。憲法も改めた。農地解放は実質上の無血大革命のようなものだが、日本の農民も、農民の指導者たる政党も、その受けとり方がテンヤワンヤで、稀有な大改革を全然無意味なものにしてしまった。

・・・・ 妙な話だが、日本の政治家が日本のためにはかるよりも、彼が日本のためにはかる方が概ね公正無私で、日本人に利益をもたらすものであったことは一考の必要がある>

占領初期に行われたマッカーサーの政策が、天皇制絶対主義の宿弊を一掃するのに役立ったことは、日本人のすべてが認めているところなのだ。岸信介やその孫の安倍晋三は、新憲法をアメリカのお仕着せ憲法だといって非難するけれども、もし当時の日本政府が新憲法草案としてマッカーサー司令部の裁可を求めたものがそのまま採択されていたら、農村には地主制度が残り、三井三菱などの財閥の勢威は衰えず、日本の民主化は形だけのものに終わった筈だ。

目下、論争の的になっている歴史認識についても、安吾はハッキリと自分の見解を述べている。

<自分で国防のない国へ攻めこんだあげくに負けて無腰にされながら、今や国防と軍隊の必要を説き、どこかに攻めこんでくる兇悪犯人が居るような云い方はヨタモンのチンピラどもの言いぐさに似てるな。ブタ箱から出てきた足でさッそくドスをのむ奴の云いぐさだ。
                    
・・・・人に無理強いされた憲法だと云うが、拙者は戦争はいたしません、というのは全く世界一の憲法さ。戦争はキ印かバカがするものにきまっているのだ>

長い占領が終わり、日本が講和条約を結んで平和国家として発足すると、それを待ちかねたように右翼が頭をもたげ、自主憲法の制定やら、再軍備の必要を宣伝し始めた。安吾はこれに我慢できなかった。彼は、日本社会の深層に、岸信介=安倍晋三的な反動を再生産し続ける病根があることを感じていたのである。

さて、私はここまで書いてきて、坂口安吾全集を注文しようかと考え始めた。私の好みには、中野重治・大岡昇平という系列と、大杉栄・坂口安吾という系列があり、後者の系列に触れると自ずと元気回復の笑いが生まれてくる。今の私には、安倍晋三的反動を笑殺する元気が必要らしいのである。
(写真は息子と愛犬と安吾)