坂口安吾という作家に興味を感じたのは、上掲の写真を雑誌か何かで見たときだった。今でこそ、TVで「片づけられない女」の実態が紹介されているけれども、この写真が公になった頃には、家の中をこんなに乱雑に散らかしている人間がいるとは信じられなかったから、各方面から一斉に驚きの声が上がった。しかも、この頃の安吾は人気絶頂の流行作家だったのである。
これが手始めだったかも知れない。安吾の破天荒な実生活がいろいろと伝わってくるようになった。そして彼が薬物中毒になり、新聞に「安吾乱心」「安吾狂乱」というような文字が躍るようになるに至って、良識派の市民から、すっかり嫌われるようになる。
しかし、同じ無頼派の作家でも、彼には太宰治や織田作之助とは少し違った印象があった。だから、安吾が留置場に何度放り込まれても、読者の多くは彼を見捨てなかった。坂口安吾には、何かしら剛毅な印象、求道者の面影があったのである。だから、バカなことをすればするほど、安吾ファンの間での彼の人気は高くなったのだ。
いや、そういってしまっては間違っている。安吾の人気は、やはり「堕落論」や「日本文化私感」に示された卓抜な見識に由来すると言わなければならないだろう。彼は世間の通説に惑わされることなく、事実唯真の目で現実を直視し、人生の実相をはばかることなく表現したから人々の敬愛を集めたのである。
子供の頃から、安吾は自分の好きなことしかやらなかった。
中学生時代の彼はスポーツに熱中し、学校に欠席届を出しておいて放課後に登校、教師の目を盗んで柔道場やグランドで汗を流した。彼は全国中学校競技大会(インター・ミドル)に出場して、走り高跳びで優勝している。新潟の中学校を二度落第して放校処分を受けそうになったので、東京の私立中学校に転校し、卒業後に小学校の代用教員になる。
ここで一転して、安吾は自堕落な生活を棄て、悟りをめざして禁欲的な生活に入るのである。その頃の気持ちを彼は、こう書いている。
「……何もかも、すべてを捨てよう。そうしたら、どうにかなるのではないか。私は気違いじみたヤケクソの気持で、捨てる、捨てる、捨てる、何でも構わず、ただひたすらに捨てることを急ごうとしている自分を見つめていた」
彼はまず東洋大学印度哲学科に入学し、睡眠時間4時間という猛勉強を開始する。食事と入浴の時間を除いて、あとは一日中本を読んでいたのだ。当時の友人達の話によると、この頃の安吾は精神的な威厳に溢れ、仲間のすべてに高貴な求道者という印象を与えていたという。
安吾はヨガ行者のような猛烈な修行をつづける傍ら、アテネ・フランセに通ってフランス語をマスターし、そこで知り合った仲間と同人雑誌を出して、創作に手を染め始めるようになる。そして、牧野信一に認められて、新進作家としてデビューすることになるのだ。
安吾は、無名作家として十数年の漂白生活の後に、戦後、「堕落論」「白痴」によって復活し、あれよあれよという間に人気絶頂の流行作家になった。湯水のように流れ込んでくる原稿料・印税を、彼は右から左にぱっぱと費消している。そのくせ、生活は簡素だった。有名人として世俗にまみれて暮らしながら、その生き方の底に悟りを目指して修行した頃の純潔な精神が一筋流れていたのである。
安吾が何より警戒したのは、安穏な家庭の中に入り自分の作品が世間的通念に知らず知らず毒されて、腐ってしまうことだった。彼は書いている。
「食器に対する私の嫌悪は本能的なものであった。蛇を憎むと同じように食器を憎んだ。又私は家具というものも好まなかった。本すらも、私は読んでしまうと、特別必要なもの以外は売るようにした。着物も、ドテラとユカタ以外は持たなかった。持たないように『つとめた』のである。中途半端な所有慾は悲しく、みすぼらしいものだ。私はすべてを所有しなければ充ち足りぬ人間だった」
だが、彼は自らパンパンと呼ぶ女をめとり、男の子をもうける。この頃から、安吾の崩壊が始まるのである。
(つづく)