アテネ・フランスに通っていた頃、坂口安吾はパーティーの席で、スコットという教師の「演説」を聞いて笑ったことがある。すると、スコットはすごい目つきで安吾をにらんだ。その目つきを安吾は「日本文化私感」のなかに次のように書いている。
「その時の先生の眼を僕は生涯忘れることができない。先生は、殺しても尚あきたりぬ血に飢えた憎悪を凝らして僕をにらんだのだ。
このような眼は、日本人にはないのである。僕は、一度もこのような眼を日本人に見たことはなかった。・・・・血に飢え、八つ裂きにしても尚あきたりぬという憎しみは日本人には、殆どない。昨日の敵は今日の友という甘さが、むしろ日本人に共有の感情だ」
柄谷行人は戦争中に書かれた安吾のこの文章を取り上げて、戦後の占領軍に対する日本人の態度を予言していると賞賛する。確かに「鬼畜米英」を繰り返し、米国とはともに天を戴かずと誓い合ったにもかかわらず、日本人は占領軍がやってくるところっと態度を変え、米英流の民主主義を一斉に賛美し始めたのである。
わが国に駐屯した占領軍兵士の一人たりとも、日本人によって殺されることはなかった。被占領国民が占領軍にこれほど従順だったケースは、世界史上ほとんど例がないと言われている。
その理由を安吾と柄谷は、とことん相手を憎むことを知らない日本人の甘さに求めている。だが、そういってしまっては、二人の持論を裏切ることになりはしないだろうか。安吾は洋の東西を問わず、また、時代の古今を問わず、人間性は同じものだとして、その立場から作品を書いてきた。彼の歴史小説に登場する人物は、現代人と全く同じ感情で動いており、そこに描かれている日本人の憎悪も喜びも決して欧米の人間に劣るものではなかった。
柄谷行人もエリック・ホッファーの、「人間のうちには原始的でどろどろしたものが常に存在している」という言葉を引いて、「人間は外的な自然に対して脆弱であるばかりでなく、内的な自然に対してさらに脆弱である」と論じる。つまり、原始的でどろどろした憎悪や欲望は、人類普遍の特性だといっているのだ。
昨日の敵は今日の友、占領軍の前で日本人が猫のようにおとなしくなってしまったのは、第一に日本人が自国の非を漠然と感じていたからだろう。第二に日本人は、世間的人間として生きる必要上、人類普遍の「原始的でどろどろした」情念を外に表さないように封じ込めたのである。
商売繁盛・家内安全という現世的欲求を前面に押し出して生きている点で、日本人も韓国人もよく似ている。様々な統計的な数値を見る限り、日本と韓国は、世界の潮流から逸出するような共通の特徴を見せている。例えば、日・韓とも企業は非正規社員を使うことによって利益を上げているし、家庭が子供の教育に熱心で、そのために惜しみなく金を使っているのだ。だが、調べてみるとその統計的数値は、いずれも韓国の方が高いのである。
日本人の非正規社員は社員全体の30パーセントだが、韓国は50パーセントである。大学進学率も韓国の方が高くて82パーセントに達しているし、少子化の比率も自殺率も、共に韓国の方が高い。韓国は日本を上回る勢いで、「世知辛い社会」へと突き進んでいるのである。そして、やがては中国がこのあとにつづき、日・韓両国よりもっとシビアな社会形成に進むだろうことが予想されている。
日本社会の歪みが、韓国社会よりも内輪にとどまっているのはなぜだろうか。「世間」の持つ抑止力のためである。「世間」が日本社会にもたらした害悪は極めて大きいけれども、プラスの面も多少はあるのだ。「世間」は、善の方向にせよ悪の方向ににせよ、社会の変化にブレーキをかけ、その動きを鈍化させるのである。
情意共同体としての世間は、国民の意見を一定の方向に誘導し、そこで固定してしまう悪しき傾向がある。その反面で、世間の目を気にする個人をして、憎悪をあらわすことを避けさせ、結果として感情を抑止する力になるという側面もある。企業も、あまり露骨な利益追求に走れば世間の非難を受けるから、一歩踏みとどまって、無茶なことを避けるのである。
だが、抑止力というものは、やはり個人の良心に基づくのが本筋ではなかろうか。