昭和20年代の末頃に肺の摘出手術を受けたら、手術室の前の長いすに5,6人の男たちが並んで座っていた。私に輸血するために待機している「輸血要員」だった。当時は、手術中に順々に彼らを室内に呼び入れて血を抜き、それを直接手術を受けている患者に輸血する仕組みになっていたのだ。
「輸血要員」の多くは、自分の血を売って生活費に当てている学生や失業者だった。賣血を頻繁に行っているために青白くやせ細った学生が多く、病院の看護婦たちは、「輸血されるあんたたちより、賣血にくる学生さんたちの方がよっぽど病人らしいわよ」と、よく言っていたものだ。
この輸血事情が、近頃ではすっかり様変わりしているのである。NHKのドキュメンタリー番組によると、現在、輸血用の血は民間の人々の提供する献血によって賄われている。私が見たのは、新宿駅近くに設置された献血ルームが血を集める様子を取り上げた番組だった。施設の主任が街頭に出て通行人に呼びかけ、献血に応募するように訴えたり、呼び込みに応じて献血した若者たちが休憩室でコーヒーを飲んでいたりする映像が次々に出てきて、なかなか興味深かった。
売血ではないから、献血者に金品は支払われない。献血が済んだ若者たちに、喫茶店のような明るい感じの休憩室で、コーヒーやアイスクリームが無料で振る舞われるだけである。何回も献血してくれる者には、記念品が贈呈されるが、これもガラスのコップやキーホルダーといったようなものでしかない。献血制度は、全く応募者の善意によって支えられているのである。
善意から献血する男女に、気負ったところのないのがよかった。彼らの中には、髪を赤く染めた不良少女風の娘やら、ひげ面のミュージシャンも混じっていたが、みんな明るくさばさばした表情で献血している。どうして献血する気になったかと問われても、「血を抜くと、気持ちがいいんでね」などと気軽に答えるのだ。
中には76回も献血しているというフリーターの男性もいた。彼も理由を問われると、照れくさそうに、「人の役に立ちたいと思ってね」と答えるだけだった。こういう若者たちの提供する血は、主として年長の病人に使われるので、献血制度は年金制度と同様にシニア世代を若い世代が支える構図になっているそうである。
自分のことしか考えていないのではないかと思っていた若い世代が、変に深刻にならずに、軽いノリで献血しているのはすがすがしい光景であった。善をなすには、こういう軽い姿勢でなければならない。しかし、(待てよと)と私は思い返した。
若者たちが、その善意を手近なところで、気軽に表出するのも悪くない。だが、これは彼らが芸術的な欲求を満たすのに身近にあるマンガ本に頼るのに似ていないだろうか。国際関係を見るのに歴史的背景を無視して、浅薄なナショナリズムに走ってしまうことに通じていはしまいか。若者たちは、その善意や知性をもう一段掘り下げて深いものにする必要があるのではないか。
フランスの著名な思想家エマニュエル・トッドは、日本の国家主義を、「気晴らし、面白半分のナショナリズム」と評しているという。「正論」「諸君」などへの常連寄稿家たちは、張り扇を叩く講釈師のような勇ましい議論を展開する。これを読んでいると勇気凛々、矢でも鉄砲でも持ってこいという気がしてくるけれども、それらは所詮「気晴らし、面白半分のナショナリズム」に過ぎず、束の間、人を愉快にしてくれるだけなのだ。
タカ派の議論が有害なのは、折角、若者が国際問題に興味を持ち始めても、その関心を低いところで押しとどめてしまうことだ。私は若い世代が、その善意について、その知的欲求について、さらなる検討を加えて、より深いものにしてくれることを祈ってやまないのである。