プロ野球の日本シリーズを見ていたら、試合そっちのけでテレビカメラが新庄選手を追い回しているので、「何だ、これは」とあきれてしまった。今年の日本シリーズは、まるで新庄選手の引退試合みたいだったのである。
新庄選手の人気がこれほど高いことに敬意を表するけれども、反面、そのために彼が身を誤ることのないように祈るものだ。新庄選手の行動には、二子山部屋の「お兄ちゃん」こと若乃花の行動を思い出させるものがあるからである。
新庄選手も若乃花も、野球や相撲の面で最高のレベルに到達できなかった。新庄選手はアメリカの大リーグで活躍したが、イチローには遠く及ばなかったし、若乃花も横綱になりはしたけれども、弟の貴乃花や武蔵丸ほどの強さを持たなかった。二人は、それぞれ全力を出し切って、その能力の達しうる限り最高のポストまで上り詰めたものの、最後に自己の限界に突き当たり、あとはもう下降するしかないというあきらめを抱くに至ったのである。
二人があれほどの人気者でなかったら、自己の限界を自覚した後も、すぐに引退する気にはならなかったに違いない。新庄選手など、あと4〜5年は現役を続けたと思われるのだ。ところが、彼らは「国民的な人気者」だったから、アスリートとしてだめなら、タレントとして生きて行こうと早々と決めてしまった。
若乃花が人気者になったのは、万事無骨な力士ばかりの角界にあって、軽妙でユーモラスな人柄を持っていたからだった。新庄選手も、プロ野球選手には珍しく、粋(イキ)でスマートなパフォーマンスを自己演出する能力を持っていたことで人気を得ていた。二人は、角界・球界の珍種だったから人気者になったのであり、タレントとして特別に抜きんでた才能があったわけではない。
だから、若乃花は角界と縁を切ってテレビタレントになってみたものの、並み居る口も八丁手も八丁の出演者の中に埋没してしまって存在感を示せなかった。新庄選手がテレビの世界に進出したとしても、やはり成功する見込みはなさそうである。野球選手がタレントとして成功するには、板東英二なみのアクの強さが必要なのだ。その意味で、大口を叩くボクシングの亀田興毅などの方が、タレントとしての適性をそなえているかもしれない。
テレビを見ていたら、大リーグ時代の新庄選手が仲間から、「これからどうするんだ」と問われて、「ムービー・スターになる」と答えていた。彼はこの映像が日本で放映されることを意識していたという。とすれば、彼はこう答えることで自分を映画会社に売り込もうとしたのである。確かに彼は、当意即妙の反応が要求されるテレビタレントよりも、映画俳優になった方が成功の可能性は高いだろうと思われる。
人気というものは、魔物である。人気者になることで自己評価を狂わせて破滅する人間がいる一方で、人気者であることに煩わしさを感じて早期に引退してしまう者もいる。そして、一度引退しておきながら、昔の華やかな生活を忘れられず、再度現役に復帰する者もある。人気は諸条件が一時的に複合したときに生じる幻影のようなもので、条件の一つが変わればあっというまに消え失せるはかないものだが、人の一生を狂わせる魔力をもそなえているのである。
人は成功に奢ってはならない。老子は、「功成って退くは、天の道」と言っている。まして、人は幻影でしかない人気に溺れるようなことがあってはならないのだ。