甘口辛口

番外・幸福への道

2007/3/30(金) 午後 5:22
過日、当ブログに、この欄にはあまり相応しくない「幸福への道」という記事を4回にわたって掲載したところ、Kantaronaturalという頭脳明敏な来訪者から以下のような疑問が提出されました。

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<しかし、裏自己に還元されるべき「生命エネルギー」が表自己の「幻想」によって集積されるとするなら、それらの幻想は真の幸福に至るための必要条件とも言えるのでしょうか。 また、幻想を幻想と見破るだけの眼力を身につけるためには、経験を積み学習を重ねる必要があるわけですが、幻想の中にあって幻想から開放されるための経験や学習を成すことは、相当に困難なことのように思えます。どんな人間にも開かれた方法論があるとすれば、それはどのようなものになるとお考えでしょうか>

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Kさんの提出した疑問二つのうち、後の方の、「幻想の中にあって幻想から解放されることは可能か」という疑問から答えたいと思います、果たして、回答になっているかどうか、自信がないのですがね。

「論語」の中で、孔子は独特の人生諸段階説をとなえています。人間は自己に目覚めてから、いろいろ模索した後に50歳になって「天命を知る」ようになり、以後天地のルールに従って生きるようになるというのです。つまり、彼は自然過程として人が幻想から覚めて、事実に即して生きるようになると言っているのですね。

表自己に巣くっていた幻想を覚めさせるのは、行動を通して得られる経験です。
芥川竜之介の「河童」には、メスの誘惑的遁走に幻惑されたオスが、メスを追い回して性交した後に失望落胆して苦い顔をする場面が出てきます。

若いうちは、性的幻想の中にエネルギーを封じ込め、性行為に過大な期待を寄せているけれども、実際に体験してみるとそれほどのことはありません。かくて幻想は消え、幻想内に封じ込められていたエネルギーが解放されて、現実を照らし出します。幻想が消えた後に、はじめて事実世界が出現するのです。

幻想は行動することによって、そして経験を積むことによって消え失せ、その後に苦い現実が残ります。だが、その苦さは甘い幻想と比較するために感じられる苦さであり、事実を事実として虚心に受け入れ、事実に従って生きるなら、「幻滅の苦き思い」は消え失せます。そして現実世界は人間の生きる唯一の場であることが理解されてきます。

人々は口をそろえて「夢を持て」と言うけれど、夢は醒め、醒めた後に現れる事実世界が、人間の生きる場所なのです。夢や幻想の最大なるものが、愛に関するものでしょう。

有島武郎は「愛は惜しみなく奪う」というエッセーを書き、多く愛すれば愛するほど自己が豊かになると言っています。小鳥を愛している人間は、小鳥を自己化し、小鳥のライフを生きるから、その分、自分の内容が豊かになるというのです。

事実は、この反対ではないでしょうか。愛が深くなればなるほど、愛する対象が自分とは異なる実質を持ち、絶対他者として自己に対立していることを実感するのではないか。人間は漠然と自分が世界と同化しているように感じるけれども、愛によって個々の事物、個々の人間が自分とは異なる絶対他者性を持つことを痛感するにつれ、同化意識などはどこかに吹き飛び、他者の無差別的集合体としてのこの複雑多岐な世界に恐れと尊敬の念を覚えるようになる筈です。

繰り返していえば、自他の一体性を感知するのが愛なのではない。世界の他者性を確認し、壮大で尊厳な世界を無条件で受け入れることが愛なのです。

有島武郎は、表自己の世界しか知らなかったのではないか。だから、愛によって相手を自己化するから、愛の人は豊かな自己世界を持つと思い違いしてしまった。しかし、そうではなくて、私たちは愛によって今まで一体であると思っていた相手の絶対他者を知るのです。だから、私たちの愛が深ければ深いほど、相手は自己内にではなく、外部世界に措定され、表自己はやせて行くのです。

愛が為しうるのは、他者である相手の全存在を虚心に受け入れ、そのことによって自他一体の甘い幻想の中に沈んでいた古い自分を新しく編成し直すことではないでしょうか。愛はわれわれの幻想を壊し、自己を日々新しくしてくれるのです。

籠の中の小鳥は、止まり木で休み、愛らしい仕草で首をかしげてみせます。小鳥を深く愛し、注意深く観察している者は、それが飼い主に対する愛情表現でもないし、餌を要求するシグナルでもないことを知っています。だが、多感な武郎は小鳥に自己の感情を移入し、その仕草を人間的に解釈するという誤ちを犯してしまったのでした。

夢や幻想が消えたとき、そこに保管されていた「生命エネルギー」はどこに行くのだろうか。表自己を離れて裏自己を照らし事実世界を浮かび上がらせる仕事しかしないとしたら、人間の幸福感は薄味になり、人生は灰色に変るのではないか・・・・・これがKさんのもう一つの疑問ですね。

照明力となったエネルギーは対象を浮かび上がらせた後で、そこに潜在力として留まると考えたらいかがでしょうか。

例えば、愛していた女が、自分の想像していたような人間ではないことを悟った男は、より深く相手を理解しようと努力する。そして、相手の長所・短所を知り、その長所を伸ばし、短所を矯めようとする。これまで照明力だったエネルギーが、自分と相手との関係性のなかに埋伏され、必要なときに動き出す力に変わるのです。

世界に対する知見が深くなれば、エネルギーは世界の各所に埋伏され、世界の要請に応える形で随時活動するようになる。幸福は、個人的幻想を実現して行くところにあるのではなく、世界の要請に応え世界への愛を実現していくところにあると感じられるようになる。実際、世界について知れば知るほど、世界への愛は深くなります。

中国の禅僧は、自己の源底に「古鏡」があると言っています。自分の内奥に事実世界を受容し、忠実に写しとっているもう一つの自己があるというのですが、これは私の用語で言えば裏自己を意味しているように思います。裏自己、すなわち「事実唯真」世界です。

私はこれまで、本を読んだりすると外の世界の知識が内面に、つまり表自己に蓄えられて行くというふうに感じていました。しかし、今は外の世界について知ると、その知識は自分から出て行って、外にあるそのものに戻されるように感じています。バラに関する知識は、庭のバラに返されて行くような気がするのです。