藤枝静男著作集を読んでいたら、伊藤整の病床日記に関する感想が載っていた。
藤枝は、伊藤整の病臥態度を、「儒教武士的ともいえる自己抑制に満ちた態度」だったと賞賛しているので、伊藤整全集を取り出して「病中日記」を読んでみた。これは伊藤整が亡くなる年(昭和44年)の6月1日から10月21日にかけての日記で、彼は11月15日に逝去しているから、ほとんど死の間際までつけていた日記ということになる。
年譜によると、伊藤整は昭和44年、64歳の春先から体調を崩し、血便などの兆候を見せ始めたらしい。だが、彼は文芸春秋社の文化講演会講師として四国へ旅行している。これが悪かったらしく、以後急激に病状が悪化し、5月6日に神田同和病院に入院することになった。
病院での最初の診断は、慢性腸閉塞症ということだったが、入院一週間後に開腹手術をしてみると胃ガンの末期であることが判明した。胃ガンのため腹膜炎を起こしていて、これが腸閉塞の症状をもたらしていたのである。既に成人していた長男と次男は、担当の医師と相談して、このことを本人と他の家族には秘密にしておくことにしたのだった。
本人にガンであることを隠しておくのは、当時の一般的なやり方だったが、長男・次男が本人はもちろん他の家族にまで秘密にしたのには、別の理由もあった。伊藤整が日頃ガンになることを恐れていたからだ。
藤枝静男も、初対面の伊藤整について、こんなことを書いている。
<「ぼくが一番恐れているのは脳溢血と癌です。癌は嫌ですね」と(伊藤整が)云われたので、「僕もよくは知りませんが、脳溢血の方はどっちかといえば血管の自然の老化現象のひとつで不可避の生理的変化に近いからなかなか難しいでしょうが、癌の方は器官の一部に起きる病的変化だから解決の方法は案外早く見つかるような気がします」と答えた。
すると、それまで当然のことではあるが口先きだけの、しかし温味ある受け答えをされていた氏の表情が急にうち解けたものに変化した。>
伊藤整は、藤枝が医師であることを知っていたから、ガンの話を持ち出したのである。そしてガンの治療法も早晩発見されるかもしれないと聞かされると、急にリラックスして藤枝にうち解けた表情を見せたのだ。
ガンを恐れ、ガンを嫌悪していた伊藤整は、それ故に医者や息子の言葉にころりとだまされた。彼は、癌研付属病院に移されてからも、まだ自分がガンであることに半信半疑でいたのである。
伊藤整の病床日記を読むと、病状がノコギリの歯のように上り下りしていることが分かる。
<この数日平熱。爽快>
<平熱四日つづく。元気なり>
というような記事の合間に、発熱や嘔吐の記事が出現し、「これですっかりよくなった」と喜色を浮かべて日記を書いた数日後に、病状が再び悪化、すべてはぬか喜びに終わっている。
こんな記事もある。
<午前便意あり座薬を使ったのだが固くて出ない。指先でほじくりだすという荒作業により固いところを出した>
日記には、彼の病気について文壇では次のような「世論」が一般的になっていることも記されている。
<丹羽文雄をはじめ、私の病気理由不明で熱が何十日も続くようなら病院を取り替えるべきだとの意見が文壇に一般化していた由>
気分のいいときには、彼は病気が治ったら、利根川沿いの港町に隠棲する夢を描き、古い大きな農家を探しておいてくれと人に頼んだりしていた。だが、時折、強い不安に襲われることもあった。藤枝は、伊藤整の態度には儒教武士的な面影があると書いているけれども、彼は病床でしばしば涙を流しているのである。
入院一週間後には、早くも次のような文章が見える。
<十一時眼が覚めて朝五時まで眠れず。輾転反側す。時々流涕して幼時を思う>
9月になると病状は深刻になり、一晩中、嘔吐を繰り返して眠れないようになった。この間、妻も眠らずに夫を介護していたが、そんな最中に彼は死についての自分の覚悟を妻に語っている。
<生死について貞子に話しているうちに涙出てとまらず。これで終わっても仕方ないと思う>
10月になると、病院側から癌研病院長と相談して新しい治療法に切り替えようと思うがどうかと意見を聞かれる。それまで考えまいとしてきたガンの疑いが、いよいよ現実のものになってきたのである。その日の日記。
<私の方はぎょっとする。しかし従うほかなし。夜涙出てとどまらず。仕事中途のもの多い故なり>
伊藤整は、ガンかもしれないという疑いを濃くしながらも、まだ、そう断定することを避けていた。癌研病院に転院する前の10月18日の日記は、次のようなものであった。
<・・・・私は癌研附属病院の黒川利雄氏のもとへ。それが癌のせいなのか、単なる内科の名手の手に託されるのか分らぬ。貞子たち、決して癌ではないというが、私は最悪を考えて涙流れる。『年々の花』ひとつでもまとめたし>
こうして癌研に移った伊藤整は、一月とたたない11月15日に死去するのだ。まだ、64歳の若さだった。
伊藤整はあまりにも才気煥発に過ぎるため、文壇人から一歩距離を置いて眺められていた。そんな俊敏な彼も自分の病気については、最後まで明確な判断を下すことが出来なかった。その理由はガンに対する恐怖ということもあったが、日記に記しているように彼にはやり残した「仕事」が山ほどあったからだった。私達が彼に対して同情を禁じ得ないのもそのためである。