甘口辛口

日本陸軍のエントロピー

2007/5/21(月) 午後 6:58

(「文春」のページ)

とにかく、驚くような数字がある。太平洋戦争での日本陸軍戦死者165万人のうち、70パーセントまでが餓死者なのだ。

中江兆民は明治憲法を歓呼して迎えた日本人を、「わが国民の愚にして狂なること、何ぞかくのごときか」と嘆いたけれども、上記の数字を見れば、「日本軍指導部の愚にして狂なること、何ぞかくのごときか」と嘆かないではいられない。兵士の7割までを餓死させた軍幹部は又、個々の作戦面でも眼を覆わしめるような無惨な失敗を繰り返していた。

その代表的なケースが、ガダルカナル決戦だった。装備と弾薬にまさる米軍に対して、日本の参謀本部は、「戦力の逐次投入」という拙劣な作戦で臨んだのだ。この愚かしい戦い方は、ガダルカナルだけではなかった。日本の指揮官は、圧倒的に優勢な米軍に対して中途半端な戦力で攻撃を仕掛けては、自軍を全滅させることを繰り返していたのだった。米軍の指揮官には、日本側の攻撃パターンがすべて読めていた。それで彼らは日本軍と戦うのは、子どもと戦うように楽だったと語っている。

一体、日本軍はどうしてこんなに愚かな戦い方をするようになったのだろうか。

文藝春秋6月号が、「昭和の陸軍」大研究を特集しているというので、読んでみた。「大研究」といっても研究者の論文を集めたものではなく、5名の「識者」による座談会を掲載しているだけだから、さほど突っ込んだ内容にはなっていない。だが、それでも問題の所在だけは分かるのだ。

明治から大正にかけて日本陸軍幹部は、長州人によって形成されていた。
当時、陸軍の実権を握っていた山県有朋、桂太郎、寺内正毅、田中義一らは、ことごとく長州出身者だった。実力がなくても、この系列につながっていれば部内で出世できたのである。

大正の末期頃から、軍の内部に反長州閥グループが生まれてくる。
このグループは、長州閥の追い落としに成功した昭和初め頃には、二派に分裂するようになり、永田鉄山、岡村寧、東条英機など「統制派」と呼ばれるグループと、真崎甚三郎、山下奉文らの「皇道派」と呼ばれるグループに別れる。が、これ以外に両派のいずれにも属さないグループがあったと文春座談会は指摘するのだ。

長州閥が退潮してから日本陸軍を動かすようになったのは、陸軍大学を卒業したエリート軍人達だった。難関の陸軍大学に合格するメンバーには、陸軍幼年学校出身者と旧制中学出身者があり、前者が多数を占めていた。陸軍大学合格者の9割までが幼年学校出身だったといわれる。

幼年学校は陸軍だけにあった制度で(海軍には海軍兵学校─海軍大学というコースしかなかった)、中学校1,2年修了者から選抜し入学させる学校だった。この学校の生徒は2〜3年後に陸軍士官学校に進むが、陸軍士官学校へは中学校4,5年生も試験を受けて入学してきていたから、士官学校生徒には幼年学校出身者と中学校出身者という二種類の生徒がいた。士官学校生徒の圧倒的多数は、中学校出身者だったにもかかわらず、彼らはほとんど陸軍大学に入学できなかったのだ。

陸軍大学の卒業生は、軍政の中枢部に座り、参謀本部に入って軍の方針を決めた。だから、日本軍部を動かしていたのは陸軍幼年学校の出身者だったということになる。長州閥消滅後に台頭した「統制派」「皇道派」の主要メンバーも、幼年学校出身者達だった。

そこで座談会出席者が、次のように指摘する状況が出現したのである。

<昭和になって明治以来の藩閥は解消されましたが、今度は幼年学校出身でなければ、なかなか陸大に合格できないし、たとえ陸大を出ても主流になれないという新たな弊害が現出したわけです>

座談会は、栗林忠道、今村均、本間雅晴らを統制派にも皇道派にも属さなかった第三の良識派グループとして取り上げている。彼らの共通点は、陸軍幼年学校の出身ではないことだった。栗林は長野中学、今村は新発田中学、本間は佐渡中学の出身で、彼らは士官学校に入る前に新聞記者を志望したかと思えば、将軍になってから「文人将軍」と呼ばれたりするというような経歴の持ち主だったのだ。

幼年学校に入学した生徒達が、頭のいい秀才揃いだったことに疑いはない。だが、彼らは広い世界を知る以前に、軍エリート養成の学校に入り、豊かな教養をはぐくむチャンスを失ってしまった。彼らの頭は陸軍大学に入学後も、陸軍部内の派閥抗争やら、戦史の研究・図上作戦の駆け引きなどで一杯になり、世界に通用するような見識やナマの現実を分析する能力を育てる余裕がなかった。

東京裁判で明らかになったのは、東条英機が首相になってからも国際情勢に疎く、日本が結んでいる対外条約に関する知識をほとんど持っていないことだった。陸軍大学卒業生の特徴を一言でいえば、揃って「利口馬鹿」だったということである。

そして世界的な見識を持たない「利口馬鹿」が日本を動かす状況は、今もなお続いていると思われる。小学生の頃から受験勉強に明け暮れた学校秀才が日本を動かすキーマンになっているとしたら、幼年学校出身者が日本を動かしていた時代と大差がないではないか。

もっと卑近なところを取り上げれば、森進一や貴乃花の例がある。彼らは、中学卒業の学歴しか持たず、成功するために脇目もふらずに精進して斯界の第一人者になった。自分が所属する狭い業界しか知らない彼らは、自己過信の結果自分を何をやっても許される存在だと思いちがいして、世間は自分の前に進んで道を開いてくれるべきだと考えるにいたった。そして自ら引き起こしたスキャンダルの渦中で苦しむことになったのである。

彼らが揃って物欲の強さを示したのは、偶然ではないかもしれない。森進一は離別した妻子に雀の涙ほどの金しか与えず、貴乃花に至っては父の遺産をすべて独り占めにして他の誰にも与えなかった。まともな素養を備えていたら、物欲、名誉欲などの低次な欲求を昇華させ、普遍的な価値の追求に向かうのが普通である。だが、彼らはそういうことを学ぶゆとりがないままに大人になってしまったのだ。

エントロピーとは「不確定性、乱雑さ、無秩序の度合い」のことだそうである。そして、エントロピーには、他から孤立した閉鎖的な状況の中で乱雑さや無秩序を進行させるという法則がある。

日本陸軍の中枢が利口馬鹿の集まりになり、太平洋戦争のさなかに勝手気ままで乱雑な作戦を展開したのは、実は、軍が天皇に直属する閉鎖的な世界だったためだ。明治憲法では、軍を統帥する権利が天皇大権に属し、軍は他のいかなる勢力も口出しできない聖域になっていた。

政党が議会で軍の行動や作戦を批判したりすると、軍関係者は、「統帥権の干犯」を言い立てて口を封じてしまった。日本軍部は天皇大権の陰に隠れ、何をやっても許されるという環境を作り上げ、その中で「乱雑さ、無秩序の度合い」を加速度化していったのである。禍根は天皇大権にあったのである。