一時期、農家の主婦は苦労が多いというので、娘を農家に嫁がせたくないというのが、世の親の「国民的常識」になっていた。だが、時代は変わり、今では農家の嫁不足問題があまり深刻に論じられていない。農業は「じいちゃん、ばあちゃん」の仕事になり、農家の長男坊もサラリーマンになるケースが増えてきたからだ。
だが、農家の長男がサラリーマンになっても、世の親や娘達の警戒心は依然としてつづいている。農家の長男は、日曜日には親の仕事を手伝い、両親が亡くなれば、いずれ彼らが跡を継いで農業をやることになるかもしれないからだ。そこで、娘達は農家の長男と結婚するに当たって、あらかじめ約束を取り付ける──「私は結婚しても、農業をしないからね」と。
「農家は苦労する割に、収入が乏しい」という国民的常識がある上に、若い女性らは「百姓仕事はダサイ」というイメージを持っている。特に、商家で育った娘達には、農業を忌避する気持ちが一段と強い。戦前の日本には、農家・商家・給料取りという三つの階層があったが、このうち商家の系統を引く家庭の娘に、農業に対する抵抗感が特に強いのだ。
農家の長男も、その両親も、こういう娘達の心情を知っているから、嫁に農作業を強いることをしない。いくら農繁期で人手が必要になっても、手伝えとは言わないのである。こうして、5,6年すると、不思議なことに、それまで農作業にノータッチでいた嫁が自分から畑や田んぼに出てくるようになる。これが一種の法則のようになっているから、農家では嫁が遊んでいても、放っておくのである。
そして、一度、手伝いをはじめると、たいていの女性は農業を愛するようになり、両親は農繁期にだけ顔を出す息子より、嫁の方を働き手として信頼するようになる。
百姓仕事をするようになった嫁は、人間としてもめざましく成長する。世俗が敬遠している「低所」に身を置くことによって、それまで彼女らの視野を覆っていた偏見から解放され、真実を見る目が出来てくるからだ。
「低所」に身を置くことによって通俗的な常識から解放され、人生の真実を見るようになるのは農家の主婦ばかりではない。東芝の社長で、経団連の会長にもなった土光敏夫も、常識世界から脱却することで身を「低所」に置いて生きた達人だった。彼は大会社の社長になっても昭和10年代に作られた木造の二階家に住み、会社には電車で通勤していた。自宅での食事は、庭で作った野菜とメザシを副食とする簡素なものだった。
ステイタスシンボルとか、見栄えとか、浮華なものにとらわれて、それらを追い求め始めたら、キリがなくなる。だが、低所に身を置き、生きることの実質が何であるか見極めれば、生活態度は安定する。つまらない問題に汲々することがなくなるのである。
毎日、夫のズボンにアイロンを掛けることを妻の義務だと考えていると、片山さつき議員が書いているのを何かで読んだ。それによると、彼女はちゃんとした仕事をする男性は、皆、プレスのきいたズボンをはいていることに気づき、夫のズボンに毎日アイロンを掛けることにしているというのだ。が、この頃、自分の仕事が忙しくなって、その時間を取りにくくなったけれども、頑張ってアイロンがけを続けているというのである。
偶然かどうか、暫くして今度は片山議員と同じような社会的ポジションにある有名な女性(名前を失念)が、自分は夫の靴を磨くのを毎朝の仕事にして、これを怠ったことがないと誇らかな調子で書いていた。
土光敏夫など社会的に成功した男性は、大体において辺幅を飾ることを気にしていない。けれども、片山さつきらの「成功した女性」たちは、男の値打ちを判定するにあたって、ズボンの折り目がぴんとしているか、靴の手入れが行き届いているかというというようなところに基準を置いて、神経質に目を光らせているのだ。
電車の中で、背広にネクタイという男とジャンパー姿の男が口論していたら、周りの人間は前者が正しいと判断するといわれる。確率の問題として、ネクタイ男の方が正しいという事実はあるかもしれない。しかし、そのような見方が一般的な見方になっているとしたら、有能な男性はそれに囚われまいと心がけるのだ。ところが、一部の女性は、蓋然性から成り立っている国民的常識をさらに推し進め、これをモデル化して自他を律しようとする。彼女らにとって、国民的常識に従って生きることが良識なのである。これに違反するアウトサイダーは、彼女らにとって取るに足りない負け犬に過ぎない。
われわれは、真実に到達するためにも、そして、リラックスして広々とした世界で生きるためにも、通俗的な「国民的常識」から脱却する必要がある。そのためには、上昇志向にとらわれず、低所に身を置いてみることが不可欠なのだ。