(耕治人夫妻)
「命終三部作」は、耕治人が亡くなる前に発表した三つの作品を指している。
その最初の作品は、「天井から降る哀しい音」であり、次に発表したのが「どんなご縁で」だった。「どんなご縁で」は、「天井から降る」を発表してから一年三ヶ月後に雑誌「新潮」に発表されている。この一年余の間に、妻の症状はさらに進み、もはや洗濯も出来なくなり、自分から入浴しないようになっていた。
耕治人は妻の代わりに洗濯をすることになったが、そうなって初めて彼は妻の下着(襦袢)が10枚ほどしかないことに気づく。それなのに妻が用意している彼の下着(Tシャツなど)は、上下合わせて何十組もあるのだった。妻はすべてについて自分のことを二の次にして、彼のことを優先して考えてくれていたのだ。
やがて耕治人の家にヘルパーが派遣されてくることになり、妻は区の配慮で入浴サービスを受けられるようになった。入浴に先立ってヘルパーはバサバサになっていた妻の髪を短く刈り、手の爪を切ってくれた。すると、髪型の変わった妻を眺めて、耕治人は動揺するのである。
彼は、「髪を切ったためか(妻が)幼い子のように見えた。その夜はどういうわけか私は淋しい気がして眠れなかった」と記している。
入浴サービスの日には、耕治人は迎えに来た区のクルマに自分も乗り込んで施設までついて行った。彼は裸にされた妻が浴槽で洗われるのを見ていた。
<家の湯殿でジャブジャブやっていた頃の家内もやせ細っていたが、いま目の前の家内は、その時より一層やせ細り、骸骨のようだ。それでいて、その体から後光がさすように感じられたのは、五十年も私のため、自分を棄て、尽くしてくれたためであろう。>
妻は夜中に失禁するようになった。
耕治人は妻の体を清め、寝室の床を拭き、洗濯しておいた襦袢、寝間着を着せながら、(あのきれい好きだった妻が)とみじめな気持ちになった。だが、その半面で、彼は「幸せな気持ちが湧いてきて、その気持ちはだんだん強くなっていった」と書いている。
妻は、失禁したあと、低い、落ち着いた口調で、「あなたにこんなことをさせて、すみません」と言う。しかし、ある夜、耕治人が目覚めて枕元の電灯をつけると、妻は眼にいっぱい涙を溜めて静かに泣いていた。
状況がさらに進むと、妻は夫を夫として認識できなくなり、失禁後の後始末をしてくれる夫に、「どんなご縁で、あなたにこんなことを」と言うようになる。耕治人は、遂に意を決して妻を老人ホームに入れることにした。
その頃から、耕治人は口の中に痛みを感じるようになった。物を食べたりすると口腔内の全面に刺すような痛みが走るのである。大学病院の医者に診て貰うと、手術の必要があるという。彼は、大学病院に入院することになる。妻が老人ホームに入所してから三ヶ月後のことだった。
耕治人は病院に入院する前に、老人ホームにいる妻に会いに行っている。
ホームで彼女は、寮母の命じるままに従順な子どものようにおとなしく行動していた。これが精神病院に入院した彼を、凛々しくも健気に介護してくれた妻なのだろうか。妻は彼が自分の病気のことを説明しても、彼の言うことを理解しているのかどうか、口元に笑みをたたえて聞いているのだ。
「どんなご縁で」という哀切な作品は、耕治人の次のような述懐で終わっている。
<もう家内の手や足を拭くことは出来ない。家内を呆けさせたことに対する罪悪感は、私がH医大病院で、苦痛の日々を送ることで、いくらか薄らいでゆく気がする。>
「命終三部作」の最後の作品「そうかもしれない」は、前作から三ヶ月後に雑誌「群像」に発表されている。この作品によれば、彼は自力で食事が出来なくなってゴム管を鼻から食道に通して栄養物を注入されるようになり、それも出来なくなって血管に直接栄養を入れることになった。耕治人は、近くのポータブルトイレからベットに戻るときにも、直ぐベットに上がることが出来なくなる。うつぶせになったまま暫く休んで、それからベットに寝るのである。
そんな彼を老人ホームにいる妻が見舞いに来ると知らされ、耕治人は枯れかけた植物が水を得たように元気になる。妻が見舞いに来るのは、もちろん彼女の発意からではなかった。ホームの関係者が、好意で計画してくれたのである。それを知りながら、彼は少しでも妻に元気なところを見せたいとおもう。
耕治人の妻は、寮母らしい50年配の女性に付き添われて、車椅子に乗って彼の病室にやってきた。妻はよそ行きの着物を着て、血色もよかった。
耕治人は久しぶりに車椅子の妻の手を握った。彼女の冷たい手を握っていると、涙が溢れて止まらなかった。
妻はニコニコして何か喋っている。だが、彼女が何を言っているのか、耕治人には皆目分からなかった。
付き添いの女性は、妻に向かって、「この人は誰ですか?」とか、「この方がご主人ですよ」とつげるが、妻は返事をしない。何度めかに、「ご主人ですよ」と言われたときに、妻は初めて低いがハッキリした声で、「そうかもしれない」と言った。
耕治人は、打たれたようにハッとして黙り込んだ。
妻がホームに戻って、何日かしたあと、耕治人はそれまでの一人部屋から元の多人数の部屋に戻された。彼が個室にいたのは病状が危険だからだった。多人数の部屋では、患者たちはカーテンで仕切られた内部で寝ている。ある日、カーテンの中でうつらしていた耕治人は、入ってきた看護婦が彼を見下ろして、こうつぶやくのを聞いた。
「よくなりたい熱意で、この部屋に戻れたんだわ」
それを聞いて彼は、自分がまたもや妻に救われたなと思った。彼が危篤状態から脱出できたのは、妻に元気なところを見せたいと頑張ったからなのだ。看護婦が出て行ったあとで、耕治人は点滴の身を忘れ、いつかベットに正座していた。その彼の体は、自然に妻のいる老人ホームの方に向いていた。──「そうかもしれない」という作品はここで終わっている。そして、これが耕治人の絶筆になったのである。
「命終三部作」を読み終えて、私が思い出したのは、「ある老作家夫婦の愛と死」というNHKドキュメンタリーの一場面だった。車椅子に座った耕治人の妻が、亡くなった夫について問われ、笑いながら答えている場面である。
彼女は呆け症状が出てきてから、入れ歯をはめることを嫌って、自分の入れ歯を棄てたり隠したりしたと耕治人は書いている。この時も彼女は上下の入れ歯をはずして、提灯の下半分を縮めたような顔をしていた。その顔に笑いを一杯浮かべて、彼女は亡くなった夫のことを語ろうとしていた。そして、「あのひとは、とても面白い人で・・・・」と言って、そこでくつくつ笑って口を閉じてしまったのだ。
彼女はもう、夫を支えて過ごした何十年のことも、その夫が死んでしまったことも、すっかり忘れているのだった。面白い人だったというときの口調には、「滑稽な人だった」という意味合いが含まれていて、耕治人のことを昔、自分を笑わせてくれたおかしな隣人のように思っているらしかった。
耕治人の妻は自分に苦労をかけ通しだった夫を、いたずらなわが子を眺める母親のような余裕のある気持ちで見ていたのである。そのことを知らないまま、耕治人は死んだのだった。