前回に紹介した「パウティフルへの旅」は、キリスト教徒に特有の死生観に基づいて制作された映画だった。クリスチャンにとっては、この世での生活は来世で始まる本当の生活のための予備校のようなものなのだ。
私は結核療養所にいた頃、仲間のうわさ話をしていた女性患者が不意に、「でも、あの人は天国には行けないんだわ」と言いだしたので驚いたことがある。こう叫んだ女性はクリスチャンで、うわさ話の対象になっていたのは非信者の女性患者だった。この非信者の女性は、人間的にすぐれたところが多かったから、クリスチャンの女性も相手を褒めていたのだが、その最中に語調を変えて突然こう言い出したのである。
最初私は相手が何を言っているのか理解できなかったけれども、間もなくその意味が分かった。彼女は、次のように主張しているのであった。天国に行けるのはキリスト教徒だけだから、いくら相手が人間的にすぐれていても、天国には行けないのだ、と。
非信者からすると、これは実にバカバカしいドグマなのである。生前にどんな悪いことをしても、死ぬ前に「キリストを信じます」といえば天国に行けて、いくらすぐれた人間でも、クリスチャンでなければ天国の門は閉ざされているというのだから。
しかもこの世の生活は仮の生活であって、永遠に続く生活は死んでから始まるというのだ。すると、これはキリスト教徒だけが永遠の幸福にあずかり得るという我田引水も極まった話になる。
「パウティフルへの旅」は、こういう信仰の上に立って、故郷の家を失った母親に、地上の家を失っても悲しむにあたらない、本当の家は天国にあるのだからと説いている。私はこの映画を見て感動したが、それはこうしたキリスト教的死生観に同感したからではなかった。理由は、別の所にあった。
アメリカインディアンは、キリスト教とは違った考え方をしている。あるアメリカ人は、インディアンの口承詩を下敷きにして、「今日は死ぬのによい日だ」(Today is a very good day to die.)という詩を作っている。この詩を、金関寿夫氏が翻訳し、さらに向阪夏樹さんも翻訳しているので、以下に向阪さんの訳を引用する。
今日は死ぬのにはもってこいの日だ。
生きとし生けるものが呼吸し、
すべての声が遍く響きわたり
すべての美が眼の前に溢れ、
あらゆる邪念は立ち去っていった。
今日は死ぬのにはもってこいの日だ。
広野はゆったりとわたしを取り囲み、
畑はすでに役目を終えた。
家は笑いに満ちている。
子等が家に帰って来たのだ。
そう、今日は死ぬのにはもってこいの日だ。
この詩に先立つ部分を併せ読めば、アメリカインディアンが、現世と和解し、満ち足りた気持ちで生きていることが分かるのである。彼らにとっては、天と地がわが家なのだ。この世界の中で、彼らは幸福に生きている。彼らがこれ以上望むことは何もない。彼らは死を永遠の眠りだと思い、死後に展開する別次元での生があるなどとは夢にも考えていない。彼らは屈託なく生きて、機嫌良く死んでいく。ウイリアム・ジェームズの用語を借りれば、キリスト教徒が「二度生まれ型」なのに対して、アメリカインディアンは「一度生まれ型」なのである。
私は唯物論者だから、死生観についてはキリスト教徒よりもアメリカインディアンの考え方に賛同する。だが、死後の生に関する限り、次のように仮定することも可能ではないかとひそかに考えている。
人間には、自己愛のほかに人類愛がある。人は、個に執着すると同時に、個を超えた全体に奉仕する気持ちを持っているのだ。郷土愛や愛国心は、自己愛の変形に過ぎないから置くとして、人はそれらとは全く異質な全体への愛を持っている。
これら二種類の愛を、個我意識に基づくものと宇宙意識に基づくものに分類することが出来る。自己愛は個我意識に基づき、人類愛は宇宙意識に基づくと仮定するのである。
人間は周囲から切り離された独立の単体だから、個我意識に基づく自己愛を持っている。だが、人間は宇宙エネルギーが生み出した派生体であり、総体的世界を構成する端末でもある。だから、個我意識が個人の肉体を基盤にして生まれるとすれば、総体的世界の一部である人間の心に総体的世界(宇宙エネルギー)を基盤にする意識が生まれたとしても不思議ではない。かくて、人間は個人の肉体に起因する意識と、総体的世界に起因する意識を併せ持つことになる。
肉体に起因する自己愛は、肉体的自己を保全するために全力を尽くす。総体的世界に起因する宇宙意識は、生きとし生けるものを含む総体世界、総体宇宙を保全するために全力を尽くす。人間以外の生物は、自己保存のためにのみ行動するが、二重の意識を持つ人間は、自己保存欲求と世界保存の欲求を調整しつつ生きるようになる。
自己愛が個人的なエゴイズムだとしたら、人類愛は全体世界による世界自身を守るためのエゴイズムである。エゴイズムという点で、両者は変わりないのである。両者は共に自己保存本能なのである。
さて、この二つの意識は死ねばどうなるだろうか。
肉体に起因する自己愛やその変種としての家族愛、郷土愛、愛国心などが肉体が消滅すれば、即消滅することは明らかだろう。しかし、個人が死んで肉体が消滅しても、全体世界は依然として残っている。すると、生前に個人の内部にあった宇宙意識、人類愛といったものはどうなるのだろうか──もちろん、それらも消滅する。が、個人の生死とはかかわりなく、外にあった宇宙意識、全体愛はそのまま存在し続けることを忘れてはならない。
次のような比喩を使えば分かりやすいのではなかろうか。
人間をテレビに、意識をディスプレイ上の映像と考えるのである。このテレビは二つのチャンネルを受像するように作られている。映像の一つはテレビ自身が自家製作してこしらえたものであり、もう一つの映像は総体世界が発信した映像を受信したものだから、テレビが壊れてテレビの自家製作した映像が完全に消滅しても、外部世界が発信する電波は変わらずに何時までも存在し続けるのだ。
本当は、チャンネルが二つあるように見えても、映像の発信源はひとつだけなのである。だが、その問題は今は触れないことにして、荒唐無稽な空想をさらに続けるなら、人は死ぬことによって「土は土に、灰は灰に」返り、つまり有機体から単なる物質に戻り、宇宙意識の基体へと還帰する。仏教でも死ぬことを「帰元」といっているように、人は死ぬことで、物質世界という本来のわが家に戻るのだ。そして、愛を本体とする宇宙意識の基体として、母に守られる子どものように安らかに憩うのである。
人間に意識が宿るようになったのは、物質が特定の配列状態になったからだった。総体世界が宇宙意識を持つにいたったのも、宇宙内の物質が特定の配列状態になったからなのだ。詩的にいえば、山川草木は宇宙という生命体の肉体部分であり、だからこそ大自然はときどき霊気を放つように見える。宇宙意志は、自然の景観の中に姿を現すだけでなく、物質の一粒一粒の中にも浸透しているのだ。
私が、「パウティフルへの旅」という映画を見て感動したのは、以上のような唯物論者にはあるまじき幻想を心の片隅で描いているからだった。機会があったら、この幻想についてもう少し述べたいと思っている。