皇室の内情というものは、なかなか民間に伝わってこないもので、戦後になっても我々に知らされた話といえば、二・二六事件に対して昭和天皇が強硬な態度を取ったということくらいだった。
とにかく、二・二六事件は、大事件だったのである。皇道派の将校に率いられた1483名の兵士が政界の大物を次々に殺害し、帝都の一画を占領したのだから、明治以後、これくらい国民を驚愕させた事件はなかった。この日の夜、勤めから帰ってきた父が、暗い顔をして、「東京で革命が起こったらしいぞ」と話したことを覚えている。当時、小学生だった私も、ただならぬことが勃発したと思って、言いしれぬ不安に襲われたものだった。
皇道派の将校が掲げたスローガンは、「昭和維新・尊皇討奸」であり、「一君万民」の社会体制を作ることだった。天皇一人を頂点に据えて、その他は一列平等の一国社会主義国家を建設しようとしたのである。とすれば、天皇があれほど激怒した理由が分からない。
彼らは別に天皇中心の国体を変えようとしたわけではないのだ。
陸軍や政界の首脳達は、皇道派の将校の掲げるスローガンを前にしてたじろぎ、腰の引けた対応を続けた。陸軍大臣が、「諸君の志は、よく分かる」とか、「君らが挙兵した趣旨は、天聴に達しつつある」とか、反乱を半ば容認するかのような告示を発ししつづけたのもこのためだった。
ところが、そういう陸軍大臣に対して昭和天皇は怒りを爆発させたのである。
「彼ら凶暴な将校達は、私が親愛する老臣たちを殺したのだ。どうして彼らを許すことが出来ようか。お前たちが座視しているなら、私が近衛部隊を率いて鎮圧に当たる」
これで軍と政界の空気は一変して、事件を起こした部隊は、「決起軍」から「反乱軍」に格下げされた。天皇の意志を知った皇道派の将校たちも恭順の姿勢を示し、反乱は自壊するにいたった。
反乱軍の将校達は、昭和天皇の親愛する老臣たちが欧米協調主義であり、財閥や富裕層を守る立場にあると考えていた。だから彼らは「尊皇討奸」を高く掲げて、天皇を取り込んで意のままに動かしている「重臣」らをことごとく抹殺しようとしたのだった。事実、天皇は元老の西園寺公望や重臣の牧野伸顕の進言に基づいて首相を任命していた。そして、元老や重臣は、間違いなく英米派であり旧体制擁護派だったのである。
だが、天皇が激怒した理由については、別の見方もあるのだ。
皇道派の将校らの考え方に、天皇の直ぐ下の弟(第二皇子)秩父宮が理解を示していたため、彼らは口実を設けて弟宮に接近し、その指導を仰いでいたというのである。やがて将校らは、天皇を退位させて秩父宮を即位させ、その下で一君万民の昭和維新を実現させようと考え始めた。
昭和天皇の怒りは、皇道派将校のこうした目論見を知ったからだというのだが、その真偽のほどは明らかではない。Wikipediaには、次のような一節がある。
<明治以降の近代天皇制ではじめての皇弟であったこと、寡黙で学者肌であった昭和天皇に対しテニスや登山を好んだ活発な性格であったこと、上流階級の子弟からなるインテリ層サロンにおける中心人物であったこと、陸軍において宮の存在が政府や海軍への牽制となっていたことなどから二・二六事件の際、反乱軍将校が秩父宮擁立を画策していた(それどころか秩父宮が反乱将校を実質支持していたとまでする説もあった)、マッカーサーをはじめとするGHQによって、昭和天皇退位と秩父宮即位の動きがあった、などの風説がうまれた>
真相は明らかでないけれども、二・二六事件以後、秩父宮は持病の結核療養の為もあってか、ほとんど表面に出ないようになった。そして昭和天皇は、陸軍部内で皇道派と対立していた統制派を積極的に登用するようになる。こうした機運に乗じて統制派の東条英機が陸軍の実権を握り、日中戦争拡大、対米戦争開始の路線を走り始めるのである。
天皇は統制派のメンバーを重用し始めたが、軍人の側ではあからさまに昭和天皇を軽んじていた。大体、勤皇を看板にした野心家達ほど、内心で天皇を侮蔑しているものはない。明治維新前夜、孝明天皇は勤皇の志士たちの手で毒殺されたといわれている。彼らは天皇を利用できるうちは奉っているけれども、利用価値がなくなれば平気で暗殺したり、帝位から追い落としたりするのである。
月刊「現代」7月号の座談会で、秦郁彦は、「(昭和)天皇にしてみれば、何をいっても(軍部から)無視される。隙を見せれば、弟の秩父宮に取って代えられるかもしれない。当時、天皇が溜め込んでいた鬱屈感は相当なものがあったはずですよ」といっている。
秩父宮は、統制派の戦争拡大政策には反対していた。再び、Wikipediaの記事を引用すれば、次のような記事もある。
<(秩父宮は)1940年(昭和15年)から肺結核に悩み、終戦時には御殿場別邸にて療養中であった。 戦時下より一貫して戦争拡大政策に批判的であったといい・・・・・>
太平洋戦争に敗北したとき、GHQは日本占領をスムースに進めるために、天皇制の廃止を求める同盟諸国の要求を拒否した。が、GHQの内部には、天皇制を存続させるとしても、昭和天皇を退位させるべきではないかという意見が浮上する。すると、伝え聞いて取り巻き達の間で、後継を秩父宮にするか、第三皇子の高松宮にするかの綱引きが始まるのだ。
高松宮に関するWikipediaの記事は次の通り。
<戦争中は開戦当初から和平を主張して軍部や政界の和平派と結び、兄の昭和天皇と対立した。側近の細川護貞によれば、一時は信任する高木惣吉海軍少将や神重徳海軍大佐などと協力して、戦争を推し進める東條英機首相の暗殺さえ真剣に考えていたが、他方、昭和天皇は宣仁親王(高松宮)のことを戦局が悪化するまで海軍の若手士官に振り回された主戦派であったと認識し、戦後、親王が発表した手記に激怒したともされている。>
巷説によれば、秩父宮は肺結核が重くなっていたため、後継争いにさほど乗り気ではなかったが、高松宮はやる気満々で、盛んに裏工作を試みたという。昭和天皇がマッカーサー司令官への表敬訪問を繰り返したのも、高松宮への対抗手段からだったという。
第四皇子の三笠宮は、皇位をめぐる三人の兄の動きに批判的だった。Wikipediaには、こういう記事が載っている。
<三笠宮崇仁親王は、「民主的な宮様」「赤い宮様」と呼ばれた時期があった。彼は戦後の民主化で皇室制度という「格子なき牢獄」から解放されたことを喜び、また、紀元節(建国記念の日)に対しては懐疑的であり積極的に反対の表明と行動を起こし、例えば(紀元節に)「最悪の場合にはアカンベをしていても、ちっともかまいません」(『文藝春秋』1951年12月号)と述べた。しかしこうした言動は、復古主義・国粋主義者などから猛烈執拗な反発を受けた・・・・・1959年2月11日にはそういった批判勢力の一部が邸宅に乱入するという騒ぎも起きた>
昭和天皇をめぐる三人の弟たちの行動を眺めると、皇族の世界も俗世と全く変わらないことが分かるのである。いや、王侯貴族の世界では、俗世にはないような、人間的能力の劣化が起きている。フランス革命期の女王マリーアントワネットは、パリの市民がパンの不足を理由として暴動を起こしたと聞いて、「馬鹿ねえ、パンがなかったら、お菓子を食べればいいじゃないの」といったそうである。
昭和天皇は、科学を愛し、合理的な考え方の持ち主だった。その彼が、戦争中奇妙な考えに取り付かれていたらしい。天皇側近の侍従は、天皇の言葉として次のようなことを書き残している。
「戦時後半、天候常に我れに幸いせざ
りしは、非科学的の考え方ながら、伊
勢神宮の御援けなかりしが故なりと思
う。神宮は軍の神にはあらず平和の神
なり。しかるに戦勝祈願をしたり何か
したので御怒りになったのではないか」
人間はすべて等価なのである。この原則に違反するとき、支配する者も支配される者も、人は次第にスポイルされて行くのである。