甘口辛口

パソコンで本を読む

2007/7/22(日) 午後 10:10


                     (上図:スキャナで文書を取り込み中)
                     (下図:パソコンに表示された文字)


活字の小さな本を読む方法について、あれこれ試行錯誤を重ねてきた。それらがすべて徒労に終わったとき、残されたのはパソコンを利用して本を読むという方法しかなくなったのだった。最後に残されたのは、まずスキャナーで1ページずつ紙面を読み込み、それをパソコン上で拡大表示するという方法である。

いろいろ調べてみると、この方法を効果的に行うには、本をばらして1ページずつスキャナーに挿入する必要があるらしかった。そんなことをすれば、本は原型を失い、ばらばらな紙片の集積に変わってしまう。私は愛書家というような人間ではないけれども、これにはちょっと抵抗があった。

しかし、あえて踏み切らなければ、手持ちの多くの本を未読のままで、あの世に行くことになる。こう考えて、新しいスキャナーの購入に踏み切ったのが十日ほど前のことだった。これまで使っていたスキャナーはフラット型だったから、縦型のものを買い足したのだ。そして、早速本をばらしにかかった。

先ず、伊藤整全集と平野謙全集、それにドストエフスキー全集から一冊ずつ選んで、本の分解作業を開始した。いずれも二段組みで印刷され、堅固に造本された書物である。

「小説の方法」(伊藤整)、作家論(平野謙)、「地下生活者の手記」(ドストエフスキー)を本から切り離し、切り離した一枚一枚をスキャナーに挿入すると、スキャナーは紙面の表裏をたちまち読み取ってくれる。50枚位の本なら、10分以内で処理が完了する。

パソコンの内部には、読み取った紙面がファイルになって保存されているから、これを呼び出して文字を任意の大きさに拡大する。こうしてパソコンに取り込んだ本を通読してみて分かったことは、「地下生活者の手記」に比べて、伊藤整、平野謙の本が、何となく読みずらいことだった。私は事前に、これとは反対のことを考えていたのである。理論的な本をゆっくり腰を落ち着けて読むには、ディスプレイ上に紙面を一枚一枚拡大表示していくのがいいと思っていたのだ。

二段組みのページを読んで行くには、最初にオモテの上段、次にオモテの下段、それから裏の上段、次に裏の下段という具合に、一枚の紙を4回に分けて表示していくことになる。画面を切り替えるには、Enterキーをクリックする。こういうやり方でクリックを繰り返しながら読んで行くと、紙面が列車の窓から外の景色を眺めるように次々に流れていくのだ。これは小説のようなものを読むのには適しているけれども、少しでも理論がかった本を読むには具合が悪いのである。

われわれは、理論的な書物を読むとき、今読んでいる内容を、それまでに読んできた内容と頭の中で照合させている。いちいち元に戻って照合するわけではない。その気になれば直ぐ後戻りして前の記事を参照できるという心理的な安心感が下支えになって、難しい本を読み続けることができるのである。

ところが、パソコンの画面が流れるように目の前を通り過ぎていくと、過ぎ去った画面に戻ることが不可能なような気がしてくる。もちろん、簡単な操作で前の画面に戻ることは出来る。だが、書籍の場合は前のページに戻った際、同時に紙面全体を一望するからポイントを掴むことが容易にできるのだが、パソコンではそういうわけにはいかない。視野狭小な虫眼鏡でものを探すようなことになり、いらだちがつのるのである。

そこで私は、「地下生活者の手記」を読み終えると、伊藤整・平野謙を読むのを中断して、ドストエフスキーの作品の中で、まだ読んだことのない「死の家の記録」の巻と「未成年」の巻を取り出した(私には複数の本を同時並行的に読む癖がある)。そして、この二冊をカッターナイフでばらし、その中味をパソコンに取り込んで、調子に乗って読んでいたところ、予想もしなかった問題にぶつかったのである。

パソコンに表示される文字の大きさは自由に変更できるから、細かな活字をぎっしり詰め込んだ本を読むときの頭痛を感じないで済む。これは、大きなプラスだった。だが、パソコンに表示された文字を一行ずつ読み進むには、眼球を大きな振幅で上下に動かさなければならない。すると眼球の運動量が増え、眼球を支える筋肉が疲労を訴え始めるのである。一難去って、また一難。時々、読むのを中止して目を休ませてやらないと、視野がぼやけて文字を読み取れなくなる。

年を取るというのは、こういうことなのである。考え得る限りの手を尽くしても、どうしても解決できない問題が残ってしまう。こうした問題が、一つ、又一つと増えてくることで、当人の内部に終末への覚悟が自然に生まれてくる。そして、何時しか終わりを待ち望む気持ちが芽生えてくるのである。

──私は、希望のない話をしているのだろうか。私はその反対の話をしている積もりなのだが。