甘口辛口

広津和郎の稟質(その1)

2007/10/14(日) 午後 5:59

広津和郎の稟質

広津和郎の「年月のあしあと」を読んで感動してから今日までに、数えてみたら44年たっている。この間に、本の内容はあらかた忘れてしまった。けれども、印象に残っている点が三つほどある。

一つは、島村抱月に関するもので、広津和郎は早稲田大学の学生だった頃、抱月が講義の合間にふと漏らす溜息のような言葉を忘れられないと書いている。抱月は、例えばこんなふうに感想を語ったというのである。

「知人から手紙を貰う。返事を書かなければならないと思いながらいたずらに時間が過ぎて行く。こんなところにもディケイ(堕落)の形があります」

抱月の口ぶりからは、日々自己の崩れていくさまを眺め、それをじっとこらえて見守っている虚無的な姿勢が感じられた。子供の頃から自分がこの世に仮に住んでいるという虚無感を抱きながら生きていた広津和郎は、島村抱月に自分と同質のものを感じたのだった。

もう一つ私の印象に残っているのは、父の広津柳浪に関する記事だった。文壇は硯友社時代から自然主義時代に移り、父の活躍舞台はなくなってきたが、娯楽的な読み物を書けば、まだ原稿料を稼ぐ余地があった。だが、父は一家の経済がどん底に落ちてもペンを取ろうとしなかった。広津家はしまいには電灯料が払えなくなって電気を止められ、ランプで夜を過ごさなければならなくなったが、にもかかわらず、広津柳浪は家族に向かって弁解がましいことは一言もいわない。彼は執筆していた頃の習慣を守り、深更まで自室にこもり、机の前に物も言わずに座っているだけだった。

広津和郎は、「自分が金のないことにコンプレックスを感じないで済んでいるのは、父が貧乏の弁解や繰り言をいわないところを見ていたからだ」と語っている。広津は父広津柳浪に絶対的な信頼を寄せていたのである。

兄俊夫に関する記録も、印象的だった。

広津の兄は、子供の頃から盗癖があって近所の家や友人宅からこっそり金品を持ち出していた。両親は苦情を持ち込まれるたびに、その返済と謝罪に追われなければならなかった。それに兄は病的な虚言癖を持っていたから、二人だけの兄弟だった広津も、しばしば兄から煮え湯を飲まさた。

兄弟の実母は、広津が8才のとき病死し、その四年後に父は後妻を迎えた。作家が後添えを貰うと、「不良性のある息子」が歯をむいて反抗するところは、どこでも同じらしかった。広津の兄が義理の母に激しく反抗したところは、幸田文の弟と同様だったのである。

中学生の兄が、朝になっても何時までも寝ているので義母が起こしに行く。すると、兄はさもうるさそうに義母の顔をにらみつけて寝返りを打ち、後は布団をかぶって不貞寝をしてしまうのだ。旧派の和歌を詠むことを唯一の楽しみにしていた義母は、和綴じの日本古典全集を大事にしていた。その本を古本屋に売り飛ばして小遣い銭にかえてしまったのも兄だった。

広津は、兄と違って一度も父から注意されたことがなかった。それは、兄があまり無責任なことばかりしでかすので、自分が兄に替わって責任を負う立場になり、「いい子」として生きざるをえなかったからだと、広津はいう。「兄が先鞭をつけてしまうので、私は兄と同じ道を行けなくなってしまった」と彼は「兄弟」という作品のなかで打ち明けている。事実、広津和郎の夢は、世俗に拘束されず、竹林の七賢人のように怠け者として生きることだったのである。

今度、「広津和郎全集」を手に入れたのを機に、私は埃まみれになっている「年月のあしあと」を棚から探し出して再読してみた。そして自分がこの本の枢要な部分を記憶からスッポリ脱落させていることに気づいたのだ。私が記憶している三つの話は、むしろ本筋から離れた周辺部の挿話であり、中心は本の函にまかれた広告文にあるように「自伝的文壇史」たることにあるのだった。

この本には、当初、作家になろうとは思っていなかった広津が、同人雑誌「奇蹟」のメンバーになり、宇野浩二や葛西善蔵や芥川龍之介との交わりを深め、次第に文壇で重きをなしていく過程が描かれていた。そして、その中には、作家仲間をながめる広津の眼識の確かさが随所に見られ、読んでいると彼の稟質の深さが改めて再認識させられるのである。

人間を見る広津和郎の目は、単に正確であるだけではなかった。情理を兼ね備えているのである。大岡昇平など人間を見る目の確かな作家は多いけれども、それらは理に偏してふくらみを欠いている。しかし広津和郎の視線には、相手を柔らかく包む余裕と温かさがあった。人間通としての視野の広さがあるのである。

彼は16才になったとき、早くも尊敬する父に対して苦言を呈している(「兄弟」)。父は長男と二番目の妻が争うのを見て息子の味方をするのが常だった。不貞寝をしている兄を義母が起こすのを見て、兄を注意する代わりに「お前の起こし方が悪い」と義母を叱ったりしていた。すると、家の中の空気が目に見えてとげとげしくなるのだ。

 「父さんが誰よりも母さんを庇うようになさらなけれ
 ば、家の中がうまく行かないと思います。兄さんや僕は
 これから育つて行く身ですから、ほっといて下さっても
 育って行きます。しかし母さんは父さんが庇って上げる
 以外に、仕合せになりようはない方です」

広津は16才でそんなこざかしい助言をしていた自分を嫌悪しているが、この聡明さこそ広津の持ち味だったのである。後年、松川事件を徹底的に調べ抜き、無罪判決を勝ち取った明敏さが、すでに少年の段階からあらわれていたのだ。

ほかに「年月のあしあと」を読んで見落としていたものに、広津和郎の女性問題があった。彼は下宿していた頃、二才年長の下宿屋の娘と体の関係を持ってしまう。広津は、この関係を、およそ愛情というものとはほど遠い一種衝動的なもので、はげしい後悔がすぐ後を追っかけてくるようなものだったといっている。確かにこれは、「私がした(生涯)最大の不始末」と彼が書いているような関係だった。おそらく広津和郎は、毎朝彼の部屋に朝食を膳に乗せて運んでくる下宿の娘と、衝動的にその場で関係してしまったのである。

聡明だっただけでなく、ストイックでもあり、人間としても立派だった広津和郎が、どうしてこうしたあやまちを犯したのか、全く魔に憑かれたとしかいいようがなかった。しかし、これがきっかけに彼は、作家として大きく飛躍していくのである。

(つづく)