広津和郎の稟質(2)
「年月のあしあと」を再読しているうちに分かったことは、この本には著者と宇野浩二・直木三十五・芥川龍之介らとの交友のさまがいきいきと描かれていて、それが私のこの本を愛読した理由の一つになっているということだった。
私達が、誰か特定の作家を愛するようになるのには、それぞれに特有の事情がある。私の周辺には、直木三十五や宇野浩二を愛読しているような者は一人もなかった。が、私の場合、自宅に直木三十五全集の端本が数冊あったからそれらを読んでこの作家を愛するようになったのだし、宇野浩二も旅先で読む本がなくて困っていたとき、偶然その地の古本屋でこの作家の作品集を買ったのが機縁になって宇野の愛読者になったのだった。その古本屋にはろくな本がなかったから、仕方なしに宇野浩二の本を買ってきたのだったが、宿屋に戻って読んでみたら、意外に面白かったのだ。
反対に広津と縁がなかったのも、偶然の仕業だった。今回、私は広津の全集で、彼が朝日新聞に連載した「泉への道」という長編小説を読んだ。もし当時、私が元気で新聞を読んでいたら、これがきっかけで広津和郎に関心を持つようになったに違いないが、その頃、私は肺切除という生きるか死ぬかの大手術を受けていて、新聞を読むどころの話ではなかったのだ。つまり、私の読書歴には、エアポケットのような穴があるのだ。入院期間中は映画館に行くことも出来なかったから、この時期に製作された映画も見ていない。だから、映画鑑賞にも空白の期間があり、この期間に活躍していた成瀬巳喜男の監督した映画をほとんど見ていない。
さて、広津と宇野浩二の46年余に及ぶ長い交友は、何時どのようにして始まったろうか。松川事件裁判の際にも、宇野は広津の盟友として共同戦線を張って戦ったほどで、その親密な関係は生涯にわたって崩れなかったのである。
発端は、広津と下宿屋の娘との関係にあった。
広津は、女と別れるべきかどうかで悩んでいたのである。この迷いは、二人の間に子供が生まれ、やがて結婚してからも続くのだが、その煩悶はいかにも広津和郎らしい論理に導かれていた。
彼には女と別れなければならない明白な理由が二つあった。第一に彼は相手を愛していなかったし、第二に彼は大学を出て就職していたが、その薄給の中から知多半島で療養している父に仕送りをしなければならず、とても女と世帯を持つような余裕がなかったのだ。彼は衷心から女と別れたいと思っていた。ところが女と手を切りたいという一念が、あまりに明瞭でありすぎたから、かえって広津は躊躇してしまったのである。彼はこの間の自分の心境を次のように記している。
、
「若し自分が彼女を愛していたならは、目下の自分の境遇を
彼女によく打明けて、そして彼女に別れて貰う事も、出来る
かも知れない。
何故かと云うと、若し彼女と別れても、彼女をほんとうに
愛していたという事のために、二人の間に不快な記憶が残
らないで済むからだ。
併し自分は彼女を真に愛してはいなかった。真に愛せずして
罪を犯したのだ。それだから、自分は彼女と別れるわけには
行かない。何故かというと、若し此まま別れたならば、二人
の間に一生不快な記憶が残るからだ。
自分のしなければならない事はたった一つしかない。つまり
、今から改めて彼女を愛そうと心掛ける事だ」
こういう広津の持って回ったような論理の背後には、広津式のストイシズムがあった。
彼は、ストイックな人間だった。それは不眠症に対する彼の態度にもあらわれていた。彼の不眠症は極めて頑固で、日に二、三時間しか眠れないのは普段のことで、朝まで眠れないことも珍しくなかった。同じような症状に悩んでいた芥川龍之介は睡眠薬を常用していたが、広津は意志の力で薬を飲まないようにしていた。ついに耐えかねて市販の睡眠薬を買ってきたときにも、薬を机の引き出しに入れたまま、結局、最後まで飲まずに済ませている。
広津が、宇野浩二を誘って三保の松原に出かけたのは、表向き翻訳の仕事をするためだった(宇野浩二は、早稲田大学では広津より一年下級だったが、広津の仲介で植草書院に就職していた)。最初に就職した新聞社を辞めて、植竹書院という出版も手がけている本屋に転職した広津は、翻訳の仕事をするため旅に出ることを許されていたのだ。植竹書院では、トルストイの「戦争と平和」を出版することになり、社員が手分けして本の翻訳をしていたのであった。
だが、三保の松原に出かけた広津の本当の目的は、女との関係に決着をつけるためだった。その時分、女との間に子供がまだ生まれていなかったから、広津がそのつもりになれば相手と別れることも可能だったのである。彼は東京を離れた見知らぬ土地で、自分の気持ちをしっかり見定めようと思ったのである。
翻訳の仕事を終えて、東京に帰ることになったが、まだ広津の気持ちは決まっていなかった。そこで彼は下宿に戻ると、必要な手回り品を鞄に詰めて、宇野の家に出かけた。彼は玄関に鞄を置いて、いきなり宇野に声を掛けた。
「当分、僕をここに置いてくれないか」
「ああ、いいとも」
と宇野は二つ返事で、承知した。
その頃、宇野は老母と脳膜炎にかかって廃人同様の兄を抱えて、せまい家で苦闘していたのである。広津は宇野と6畳間で枕を並べて寝ることになり、こうして半世紀に及ぶ広津と宇野の交友がはじまったのだった。
その宇野の部屋に、さらに広津の兄が転がり込んできている。広津の兄は、早稲田大学の政治経済学科を卒業後、名古屋の会社に就職していたが、会社の金を使い込み、身の置き所がなくなって弟を尋ねて来たのだ。かくて、6畳間に大の男が三人、すし詰めになって寝ることになったが、そうなっても宇野浩二はイヤな顔一つしなかった(広津の兄は、その後、広津の留守中に弟の所持品をすべて売り払って姿を消している。この兄とは、父の葬式のときに顔を合わせただけで、広津はその後ずっと会っていない)。
今度、「年月のあしあと」を読み返してみて、宇野浩二を文壇に送り出したのは広津であることを知った。宇野の文壇へのデビュー作は、「蔵の中」という短編小説である。宇野にこの作品の題材を与え、出来上がった原稿を雑誌社に売り込んでやったのも広津和郎だった。
私は旅先の古本屋で購入した宇野の作品集を読んだとき、「蔵の中」の主人公は作者自身ではないかと思った。この作品は、次々に着物をこしらえては質に入れてしまう衣装道楽の男が、虫干しのシーズンになると質屋の主人に頼んで蔵に入れて貰い、自分の手で着物の虫干しをするという話だが、これは広津が雑誌の編集者から近松秋江のうわさ話として耳にしたもので、広津はこれを作品にするように宇野に勧めたのである。
宇野を文壇に送り出してやった広津は、宇野が発狂したときにも親身になって病人の世話をしている。宇野浩二が発狂したときの光景には、哀れをそそるものがある。
(つづく)