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宇野浩二の奇妙な生涯(その2)

2007/11/22(木) 午後 3:52

(晩年の宇野浩二)     

<宇野浩二の奇妙な生涯(その2)>

宇野浩二は他人の前では、伊沢きみ子の名前を口にすることがなかった。何時でも、「うちのヒステリー」で通していた。彼のこうした言い方には、諦観と愛情の混じった女への複雑な心境が感じられ、きみ子への決定的な嫌悪は見当たらない。母がきみ子との同居に耐えきれなくなって親戚の家に逃げるように移った後も、彼は依然として彼女との同居を続けている。彼女への未練があったからだろう。

宇野は次男だったが、兄が知能に欠陥を持っていたため、父の死後は彼が家長の役を引き受けなければならなかった。その彼が兄を故郷の親戚に預けっぱなしにして上京し、今度は母を東京の親戚に託したのだから、親戚の目に宇野が無責任な跡取りとして映ったのは当然だった。伊沢きみ子が一族から疫病神と見られていたように、これ以来、宇野浩二も親戚たちから落ちこぼれの典型として見放されることになる。同じ落ちこぼれでもきみ子の方は攻撃型だったのに対し、きみ子の言いなりになっている宇野は受け身型・被害者型の落ちこぼれだった。

芸者として売れっ子だったきみ子が、貧乏暮らしの、しかも姑付きの宇野のところへ押しかけ女房のようにして入り込んだのは、宇野が受け身型の気弱な男だったからだった。ヒステリー性格の女は、自分を許容してくれそうな弱い男を本能的に嗅ぎ分けるのである。

しかし伊沢きみ子が見落としていたのは、宇野浩二が一筋縄ではいかない男だということだった。宇野は万事について無抵抗主義者だと自認し、「僕はだいたい『無理』ということがきらいな質(たち)だ。僕は何でも『自然』にまかしたいんだ、自然にさからいたくないんだ」と語り、相手から押されれば、そのままずるずると後退するように見せかけているものの、本当は二枚腰のしたたかな男だったのである。

宇野は、いざとなると自衛本能を発揮し、人が変わったように利己的に振る舞う。宇野の古い友人保高徳蔵は、宇野からしばしば煮え湯を飲まされ、宇野のエゴイズムには憎しみを抱いていた。早稲田大学に学んでいた頃の宇野は、親戚の援助でかなり豊かな学生生活を送っていたにもかかわらず、金に不自由している保高にたかっていたのだ。ほかにも宇野は金銭的な問題で友人の多くに迷惑をかけている。彼は、相手がお人好しと見れば、遠慮なくつけ込んでいく押しの強さを持っていたのである。

そして、この要領の良さはきみ子に対しても発揮された。
きみ子は宇野との生活が経済的に行き詰まったとき、「もう一度、芸者に出ようかしら」というようになった。純真で人のいい彼女は、自分を犠牲にして窮地に立っている宇野を助けようと考え始めたのである。すると、宇野は、「私が作家になるまで、どうか我慢してくれ。そしたら、迎えに行くから」と指切りして、女を送り出している。きみ子は横須賀の置屋から受け取った前借金を宇野に渡し、宇野はこれを引っ越し費用や引っ越し先への手付け金に使っている。

暫くするときみ子は宇野と打ち合わせて借金を踏み倒して横須賀から逃げ出し、横浜の置屋に住み替えている。きみ子がこうした掟破りの挙に出たのも、やはり宇野を援助するためだった。しかし、横浜に移ってからは、きみ子からの連絡は次第に間遠になって行き、やがて消息も知れなくなった。それから二年後、宇野は友人からきみ子が自殺したという知らせを受けるのである。友人は、横浜の西洋人宅の小間使いになっていた伊沢きみ子が「猫いらず」の毒を飲んで死んだことを新聞で知ったのだった。

皮肉なことに、きみ子が自殺した頃から宇野浩二に幸運の星が巡ってきた。その前年に宇野は広津和郎から材料をもらって、「蔵の中」という作品を書き、これが広津の努力で雑誌に発表されると、一躍、人気の新進作家になったのである。きみ子は宇野が念願の作家になったことを知ってか知らずか、猫いらずの入った団子を食べるという変な方法で自死したのだった。

「蔵の中」で売れっ子になった宇野は、「苦の世界」を書いてさらに評判になった。

きみ子との同棲からはじまって、彼女の自殺に至るまでの出来事は、その頃流行の私小説には格好の題材になるはずだった。宇野はヒステリー女への未練を断ち切れず、女手一つで知能の遅れた兄と自分を育ててくれた母を裏切り、母を親戚宅に追いやって肩身の狭い居候にしてしまったのだ。これを従来の私小説的手法で作品化すれば、現世の地獄を思わせる暗く惨めな物語になるのである。

だが、宇野は「苦の世界」を従来の自然主義文学のパターンにあわせて、暗澹たる私小説にする代わりに、全く別の話にしてしまったのだ。

宇野作品は、題名こそ「苦の世界」となっているけれども、陰惨な感じがほとんどない。同棲した女のわがままも貧乏のつらさも、むしろ明るい調子で描かれている。話が明るくなったのは、登場人物の内面、そのトラウマや痛所をすべて切り捨てて書いていないからだった。

きみ子がヒステリー女になったのには、それ相応の理由があったはずだが、宇野はその理由について全く触れようとしない。そして彼はきみ子の前でオドオドしている母親を見て心を痛めたに違いないのに、それについても何も語らない。それより何より、彼は彼自身のきみ子に対する愛と憎しみについて口を緘して語ろうとしないのである。彼は自分の受けた被害については、「・・・・往来の人々が耳を立てて立ち止まるほどの大きなさけび声をあげて泣いたり、そして母のいないときは夫たる私を打ったり、時としては蹴ったり・・・・」と書くだけで、それ以上にペンを進めようとしない。

登場人物の感情的側面、その心の痛所をカットしてしまえば、女の尻に敷かれていた過去も貧乏話も、一条のお笑いぐさになってしまう。宇野浩二初期の作品は、感情過多という世評に反して、実は内面を語ることをさけている。彼の初期作品は人間の主体的情念を切り捨てて外面の行動だけを描き、そこから生まれる「おかしさ」を隠し味にしている。その小説は、自らの気分や感情を調子に乗って饒舌に語っているように見えて、表面的な言動の下に隠れている人物の内奥には故意に目をつぶってしまっているのだ。

問題は、ここにあるのである。宇野浩二は、どうして登場人物の内面をあえて切り捨てるのか。

人間としての宇野浩二は気弱で引っ込み思案の消極的人間だったが、性格の芯のところには強い自衛本能があって、いざとなると人に譲ることがなかった。こうした二枚腰は、彼の精神生活にも現れていた。彼は、中学二年生の頃から翻訳のトルストイやドストエフスキーを読むような早熟な少年だったが、文学や思想の面で時代の潮流に流されなかった。流行に抗する固有の自己を持っていたのである。

評論家としても高く評価されていた広津和郎は、知的な能力の広さと深さの点で、自分よりも宇野浩二の方が優れていると言っている。広津も時流に抗する形で、トルストイよりチェーホフを評価する論文を書いていたが、宇野はチェーホフより更に知名度の低いゴーゴリを評価していたのだ。「文学の鬼」「小説の鬼」を自称する彼は、様々な思想や文学上の流派を読みこなし理解した上で、ゴーゴリを自分の師として選んでいたのである。

宇野浩二の名前を天下に知らしめることになった「蔵の中」「苦の世界」を始め、発狂以前の彼の作品はゴーゴリの影響下に書かれている。ゴーゴリ的リアリズムの産物だったのだ。しかし、ゴーゴリを自己の師表として選んだ結果、宇野浩二は奇妙な生涯を送ることになるのである。

(つづく)