甘口辛口

「夕顔棚納涼図」の衝撃

2008/4/28(月) 午後 3:34


<「夕顔棚納涼図」の衝撃>


日本人の多くは、「夕顔棚納涼図」を見て衝撃を受け、以後、久隅守景という名前を忘れないようになる。私も学生時代のある日、国立博物館でこの屏風絵を見た瞬間、足が動かなくなった。

私は長い間探していたものを見つけたような気がしたのだ。ゴザの上に腹這いになっている男の、人生をすねたような、達観したような顔つきを見ていると、生きることなど極めて易々たるものに思えてくるのである。

かたわらには、上半身裸になった洗髪の女房が気楽そうに坐っており、男のうしろには、四・五才の男の子がいる。皆、気張ったところが少しもない。それぞれが適当にやって、それでちゃんと所を得ている。

久隅守景の絵は、その後長い間、一種のユートピアとして私の心に残った。その気になれば私たちは、この絵があらわしている世界に今直ぐにでも入って行くことができる。だが、今直ぐにでも実現可能なことが、実行するのに最も困難なことなのだ。

「夕顔棚納涼図」に描かれている一家は、とにかく自然体で楽々と生きている。今まで、こんなのびのびとした世界が身近にあることに気がつきもしなかったが、一度気がついてしまうと、「納涼図」の世界こそが日本人、いや人類全体に与えられたユートピアであることが分かってくるのだ。

では、久隅守景は、どんな男だったろうか。

久隅守景は寛永年間から元禄時代にかけて活躍した絵師で、その頃の画壇の大ボス狩野探幽の弟子だった。彼は探幽門下四天王の一人であり、探幽の姪の国という娘を妻にしていたから、絵師としての未来は洋々たるものだった。

ところが国との間に生まれた雪と彦十郎は、ともに絵師になったが、二人とも問題を起こした為に久隅守景は父としての責任を問われることになった。加えて、彼は師匠の探幽の技量を批判し、あろうことか師の描いた山水図に手を加えるようなことをしたから、狩野派から破門されてしまうのだ。

江戸を追われた久隅守景は、北陸の金沢にのがれ、それから京都に移り、流浪の絵師として生涯を過ごすことになる。その間に彼は、多数の作品を残している。「夕顔棚納涼図」も、流浪中の作品らしいのである。

「夕顔棚納涼図」についての研究がすすんで、この絵柄は木下長嘯子の短歌に基づくものとされるようになった。木下長嘯子は、「天下至楽」の光景として、こう歌っている。

      夕顔の咲ける軒端の下涼み
           男はててれ女はふたの物

「ててれ」は褌または粗衣のことで、「ふたの物」は腰巻きを意味するから、男女とも全裸に近い格好で夕涼みをしていることになる。木下長嘯子は、このリラックスした生き方を天下の至楽として歌に詠んだのである。

この短歌を下敷きにした作品は、有名無名の絵師によっていくつか描かれているものの、それらはいずれも俳画ふうの省筆で描かれていて、久隅守景の作品ほどキチンと描かれたものはない。では、守景は何故この屏風絵を丹念に描いたのか。現在では、木下長嘯子の短歌に触発されはしたが、守景は自分たち一家の日常をこの屏風絵のなかに描き込んだから、充実した作品になったと解されている。

でも、この絵を眺めていると、到底、守景一家の肖像画とは思えないのである。中央で頬杖をついている中年男の年齢は、40格好に見えるのに女房の方は20代半ばに見える。探幽の姪だった国が嫁いできたとき、守景は20代の若さだったと思われる節があるから、図中の男女を久隅守景夫妻と見るには無理があるのだ。

最近、納涼図は夫婦を描いたのではなく、父とその二人の子(姉弟)を描いたのだという説をなす研究者が現れている。すると、半裸の女は長女の雪、童子は彦十郎ということになる。姉と弟の年齢差は7才だったというから、これも何だかおかしなことになる。屏風絵の女は20代の半ばに見えるのに、童子は4、5才にしか見えず、二人の間に20才近い開きがあるからだ。大体、いかに夕涼みとはいえ、娘が父親の前で腰巻き一つになるなどということは考えられないのである。

「夕顔棚納涼図」に描かれた男女が、久隅守景とその家族だとしたら、女房は後妻であり、童子は守景が後妻との間にもうけた子供ということになる。最初の妻は、守景が都落ちして江戸を立ち去るとき、夫について行くことを拒み、探幽一門に引き取られたのではなかろうか。夫が狩野派に反逆したとき、妻は夫ではなく、実家の方を選んだのだ。

私が小説家なら、この後妻の前身を守景家に雇われていた小女にしたいと思う。彼女は貧乏絵師の娘に生まれたが、両親に死別して天涯孤独な身になったので守景が哀れんで小女として引き取ってくれたと仮定するのだ。その小女の目で、狩野派の革新をもくろんだ守景や、その父の影響を受けて奔放に生きた娘と息子の肖像を書いて行く。やがて守景が妻を残して一人旅立つとき、思春期になっていた小女も一緒について行って主人の世話を焼き、やがて二人は男女の仲になったということにする。

女は夫婦の関係になっても、男を立てて自分は一歩退いていることにすれば、納涼図のなかの人物配置に矛盾はなくなる。女は男と並んで座らないで、男の足もとに退いているのだ。

それにしても、納涼図の中の女のリアルな描き方は見事である。江戸時代の絵師たちは、女を描くとき、伝統的なパターンに従って、ふくらみに欠けた栄養失調型ないし亡霊型の姿態にしてしまう。だが、守景の作品には生身の女がいるのだ。

納涼図の女だけではない、久隅守景の「四季耕作図屏風」に描かれた農民たちは、すべて現実感を持ったリアルな姿をしている。彼は庶民の中にとけ込み、働く男女を共感をもって描き出しているのだ。彼は日本のミレーなのである。江戸時代にも、ミレーを思わせる農民画家がいたことを忘れてはならない。