<日本残酷物語>
戦争が終わったとき、陸軍士官学校や海軍兵学校に在籍していた学生たちは、編入試験を受けて他の学校に「転校」した。私たちのグループにも海軍兵学校から二名、陸軍士官学校から二名の学生が転入してきた。海軍兵学校から移ってきた学生は、二人とも陽気で明るかったが、陸軍士官学校から来た学生の一人は無口で何時も押し黙っていた。
その無口な学生が、一度だけ士官学校時代の思い出を語ったことがある。昭和20年8月15日、敗戦の日に指導教官が切腹した話である。
その日、まだ20代の教官は担当しているクラス全員に、夜になったら神社に集まれと命じたという。何のために集合するのか分からないまま、指定された時間に校内にある神社の境内で待っていると、教官が提灯をぶら下げて一人でやってきて、提灯の乏しい明かりの下で、腹を切り始めたという。
クラスの全員は、体を硬くして見守っていた。──そこまで話してきた学生は、教官が切腹するときの様子には全く触れず、「死ぬまでに長い時間がかかって・・・・」といった。それだけで、私たちにはすべてが想像できた。
昔の侍が何かと言えば切腹したのは、介錯してくれる者がいたからだった。刀を一気に腹に突き立てることまでは誰でも出来る。しかし、その刀を激痛に耐えながら横一文字に引き回すことなど誰にも出来ることではない。だから、背後にいる介錯人が適当なところで首をはねてやったのである。
問題の教官は、介錯人なしで、独力で腹を切り始めたから、刀を腹に突き立てたまま、それを引き回すことが出来ず、途中でストップしてしまったのだ。阿南陸軍大臣も、敗戦後、自宅の二階縁側で介錯人なしで切腹している。やはり、絶命するまでに長い時間がかかったという。
腹を切る教官も大変だったろうが、一部始終を見守っていた学生たちの方も大変だったのだ。阿南大臣は見苦しいところを見せてはならないと考えて、切腹する現場から家族や部下を遠ざけた。それで身内の者は、階段を上がってそっと阿南の様子をうかがっては階下に戻るということを繰り返したらしい。だが、問題の教官は、自らの死を皆に見届けさせるために切腹の現場に学生たちを集めたのである。学生たちは、医者を呼びに行くことも出来ず、苦悶する教官をひたすら見守るしかなかった。
しかし、教官は、なぜ切腹したのだろうか。阿南陸軍大臣は敗戦の責めを負って自死を決断した。けれども、士官学校の年若い教官が何故死ななければならないのか。唯一考えられる理由は、教官が敗北した日本に殉じる気持ちになったかもしれないということだ。
それは兎も角として、確たる理由もなく切腹した教官も、その教官が絶命するのを体を硬直させて見守っていた学生たちも、古い日本的慣習の犠牲者ではなかったかという気がする。
歌舞伎には、この手の何かしら残酷なものを感じさせる演目が多い。現実にこうした残酷な光景に接したとき、外国人ならどう反応するだろうか。
森鴎外に「堺事件」という作品がある。
堺事件というのは、江戸幕府が倒壊し明治新政府に移行する時期に、土佐藩兵がフランス人13名を射殺した事件のことである。まだ微力だった新政府は、フランス側から厳重な抗議を受けて、土佐藩兵20名を処刑することを承知せざるを得なかった。この事件を描いた「堺事件」は、日本側・フランス側の立会人が見守る中で藩兵が次々に切腹して行くと場面を山場にしている。
処刑場に最初に呼び出されたのは、箕浦猪之吉という藩士だった。
<箕浦は衣服をくつろげ、短刀を逆手に取って、左の脇腹へ
深く突き立て、三寸切り下げ、右へ引き廻して、又三寸切
上げた。刃が深く入ったので、傷口は広く開いた。箕浦は短
刀を棄てゝ、右手を傷に押し込んで、大網を掴んで引き出し
つゝ、フランス人を睨み付けた(注:大網は腸を覆っている膜)
馬場(注:介錯人)が刀を抜いて項を一刀切ったが、浅かった。
「馬場君。どうした。静かに遣れ」と、箕浦が叫んだ。
馬場の二の太刀は頚椎を断って、かっと音がした。
箕浦は又大声を放って、
「まだ死なんぞ、もつと切れ」と叫んだ。此声は今までより
大きく、三丁位響いたのである。
初から箕浦の挙動を見てゐたフランス公使は、次第に驚愕
と畏怖とに襲われた。そして座席に安んぜなくなつてゐたの
に、この意外に大きい声を、意外な時に聞いた公使は、とう
とう立ち上がつて、手足の措所に迷った。
馬場は三度目にやうく箕浦の首を落とした(「堺事件」)>
こんな調子で、土佐藩兵は次々に切腹して行く。中には介錯人が動転して七太刀目にようやく首を切り落としたケースもあった。こうしてようやく11人の切腹が終わった。
<フランス公使はこれまで不安に耐えぬ様子で、起ったり居
たりしてゐた。此不安は次第に銃を執って立ってゐる兵卒に
波及した。姿勢は悉く崩れ、手を振り動かして何事かさゝ
やき合ふやうになった。丁度橋詰が切腹の座に着いた時、公
使が何か言云ふと、兵卒一同は公使を中に囲んで臨検の席
を離れ、我皇族並に諸役人に会釈もせず、あたふたと幕の外
に出た。さて庭を横切って、寺の門を出るや否や、公使を包
擁した兵卒は駆歩に移って港口へ走った(「堺事件」)>
未だ9人の刑が残っていたので、日本側の役人がフランスの軍艦を訪ね、フランス公使に途中退席の理由を問い質した。すると、公使は、「もう、あの惨憺たる状況を目撃するに忍びないから、残る9人の助命を日本政府に申し立てる」と答えた。
大岡昇平は、森鴎外がこの事件を国威発揚の美談仕立てにしたことを厳しく批判している。実際、こうした話は美談でも何でもないのだ、ただの残酷な話に過ぎないのである。
日本人の精神史を見て行くと、残酷としか思えない話が美談になっていることが多い。例えば、人柱の説話がある。橋を作るときなど、人間を生き埋めにして「人柱」にしたというのだが、人柱や殉死の慣習は、豊作祈願のため数百人を犠牲にして殺したマヤ文明と同様、先史時代的蛮行なのである。
さて、明治に生きた鴎外も漱石も、乃木大将の殉死を肯定している。
数日前、TVをつけたら市川崑監督特集ということで「こころ」を放映していた。この映画の主人公「先生」は乃木大将の殉死に誘われて自殺するのだが、漱石をしてこうした小説を書かせるほど明治期の日本人は乃木大将の殉死に惹かれていたのである。だが、次の大正世代になると、乃木大将への評価は一変する。
芥川は、乃木大将をモノマニアックな人間、病的性格者としてとらえているし、志賀直哉は乃木殉死の報を聞いたとき、ものの分からない下女が取り乱して慮外なことをしでかしたようだと感じた。彼らの見方は極端かもしれない。だが、この方がむしろ人間としては正当な感じ方なのだ。
ところで、乃木夫妻は二人だけで死んでおり、介錯する者はなかった。
松本清張は乃木夫妻の公式な死亡検案書を手に入れ、「両像・森鴎外」という本に掲載している。彼は、ベストセラー作家としての立場を生かして僅かしか残っていないこの検案書を発掘したのである。
それによると、乃木大将は腹を切った後で、頸部の動脈・静脈を刃で刺し貫き、うつぶせになって絶息している。夫人も短刀が埋まるほど深く胸を刺して、やはりうつぶせになって死んでいる。
後世に生きる私たちは、二人があまり苦しまずに済んだらしいことを、せめてもの喜びとしたいのである。