<日本人の顔(その2)>
10日ほど前のことである。ビデオに撮り溜めてあった美術番組を見ているうちにショックを受けた。問題の番組というのは、NHKの「新日曜美術館」シリーズのうちの一つで、高山辰雄を取り上げたものだった。
高山辰雄については、アサヒグラフ別冊の高山辰雄画集を購入したときに、一通り目を通している筈だったが、ほとんど記憶に残っていなかったのだ。それが、今度ビデオで彼の作品を改めて眺めてみると、そのどれもがゾクゾクするほどいい出来映えなのである。
さすがに若い頃から天才の名をほしいままにしているだけのことはあった。高山は東京美術学校にトップで入学し、卒業するときも首席だった。そして日展に初出展して、いきなり特選になっているのである。
NHKは、高山辰雄を特集するに際し、「宇宙に触れたかった人」という題名をつけている。
しかし、彼は壮大な宇宙を画題に選んで来たから、こうした題名がついたのではない。世の常の日本画家と同様に、高山は女性像、風景、牡丹などを描いているだけなのだ。彼が他の画家と違っているところは、日本画的な画材を取り上げながら、「いのちというもの、存在というものを探って見たい、絵によってそれらを探ってみたい」と考えているところだけなのだ。
高山は、自宅の庭を毎日、長い時間をかけて眺めているうちに(この点は、熊谷守一に似ている)、すべての生き物──単細胞動物にもオモイというものがあり、アメーバーもココロを持っていると思うようになった。
テレビで紹介された彼の作品のなかに、もの食う子供を描いた二点の作品がある。高山辰雄は言っている。
「子供が食べているのを見ると、たまらなくなる。たまらないほど悲しくなる」
食べなければ生きてゆけない人間の宿命が、ものを食べる子供の姿態のなかに端的にあらわれているのである。だから、もの食う子供を見ると悲しくなるのだ。彼は子供の愛らしさを描くのではなく、そういう人間の宿命を描くために子供を題材にしたのだった。
彼は又、こんなことも言っている。
「自分は個性ではなく、すべての人間の持っている(普遍的な)ものを描きたい」
高山辰雄の描く牡丹ほど奇妙な代物はないだろう。
牡丹といえば花弁を幾重にもかさねた絢爛たる姿と色彩が思い出される。高山は花の形を鮮やかにとらえ、自然のうみだす造形美を遺憾なくとらえながら、肝心の花の全体を灰色に塗りつぶしているのだ。脱色されて灰色になってしまった牡丹。
そして背景もやはり、沼の底を思わせるような色調で統一されているのだ。魚も住まず植物も育たない、水垢が厚く沈んだ深い沼底のような背景。
人は、牡丹を見るときに豊かな土壌に育てられた豪奢な花弁群を思い浮かべる。けれども、高山はその絢爛たる牡丹の背後に、沼の底のようなところに根を下ろした色も生気もない牡丹を想定し、これこそ花の素形、花の存在それ自体だという。それだけではない、高山は、あの水垢が降り積って自然に毳立ったような沼の底を存在するものの基盤、宇宙の基底と考えているのである。
高山の描く少女像にも、二重の構造がある。
冒頭に掲げた三つの少女像のうち、最初のものはわれわれが見慣れている純真で清楚な日本の少女の顔である。だが、別の二つの顔は、妖怪を思わせるような謎めいた顔である。高山は、単純な顔をした彼女らの内部には、思いも寄らない別の顔が潜んでいると指摘しているのである。
高山辰雄は、美しい花を見てその花の背後に灰色の醜い花を想定する。そして、灰色の牡丹を支えているのは、死んだ沼底のような得体の知れない基底なのだ。そして、この基底こそ宇宙そのものの基底なのである。
彼は、愛らしい子供がものを食うところを見ても、長じて餓鬼のようになる人間の原像を見るし、無垢で純真な日本の少女を見ても、魔界での破廉恥なあそびを夢見る小妖魔を連想する。
高山は、存在するものは二重の構造を擁するが故に、オモイを抱きココロを持つと考える。そして沼の底のように拡がる宇宙の基底の彼方には、そういう宇宙を包みこむ聖なるものがあると信じている。彼は人間も宇宙も、やがては皆そこに帰って行くと語っている。
高山辰雄の作品に接してから、大相撲を見物する観客を見ると、単純で人がよさそうに見える日本人も、その背後に別の顔を隠しているように思えてくる。死ねば、一蓮托生、全員が同じ所に帰って行くことは確実なのだ。