1<生のなかの死>
若い頃、伊藤整の書くものは何でも面白く読めた。
彼が、「抑圧の強い日本社会では、知識人は仮面紳士になるか逃亡奴隷になるしかない」と書けば、その絶妙な比喩に拍手したし、「若い詩人の肖像」などを読めば、芸術家を目指す若者の内面が手に取るように見て取れて興味深かった。
しかし、伊藤整に親近感を感じたのは、「得能五郎の生活と意見」や「鳴海仙吉」などの身辺雑記ものを読んだからだった。それには、文筆業者として周囲と摩擦なくやって行くために、あれこれ気を遣っている伊藤の日常がユーモラスに語られていた。彼は自分がいかに臆病で小心な男であるかを証明するために、第三次世界大戦の勃発に備え、自宅の庭先で山羊を飼っているなど打ち明けるのである。
写真で見る伊藤整も、そのエスプリに充ちた身辺雑記の内容を裏付けるかのようだった。知的で、いかにもやさしそうな笑顔。文壇評判記といった種類の記事によると、作家仲間の間では彼は誰に対しても微笑を絶やさない温厚な紳士として知られているということだった。
そうした伊藤整のイメージが崩れたのは、彼の死後に息子が雑誌に書いた追憶記事を読んだときだった。息子は、「子供の頃、父に階段から蹴落とされたことがある」と語っていたのだ。
それよりもっと驚かされたのは、伊藤整が若い頃から奮闘的人生を送っていたらしいことだった。彼は小樽高等商業学校を卒業して、市立中学校の英語教師になっている。が、僅か二年後に教師を辞めて上京し、東京商科大学(現在の一橋大学)を受験し合格しているのである。
彼の父親は村役場の吏員で、妻との間に12人の子供をもうけていた。このうち7人は死んで5人が生き残っていて、伊藤整はその長男だった。こういう家庭に生まれた彼が、上京して学生生活をやり直すためには相当額の資金を必要としていた。ところが、彼は教師をしていた二年の間に、何と千三百円もの大金を貯金していたのである。しかも彼は、この間に、実家に月30円ほどずつ仕送りをしていたし、「雪明りの路」という詩集の自費出版もしているのだ。月給85円の新任教師の身で、どうしてこんな手品のようなことが可能だったのだろうか。
伊藤は学校の宿直室に泊まり込んで下宿代を節約しながら、夜間学校の教師をしたり、外人に日本語を教えて副収入の道を講じていたらしい。それにしても、二年間に千三百円を貯金するためには、毎月54円ずつ積み立てて行かねばならず、これをやり遂げるには、強靱な意志の力と才覚が必要なのである。
上京した伊藤整は、この強靱な意志と目から鼻に抜けるような才覚で着々と文壇的野心を実現して行くのだ。マルクス主義文学の退潮後、日本のジャーナリズムは欧米の新しい文学的潮流に目を向けるようになるだろうと狙いをつけた伊藤は、ジョイス文学の紹介者になり、自らも「意識の流れ」の手法に基づいた作品を発表しはじめる。
こうして新進作家として登録された伊藤整は、戦後になると文学理論と実作の双方で実績を積み上げて行く。それだけではなかった。彼は「女性に関する十二章」などのベストセラーを連発して、経済的にも大いに潤い、文壇長者番付に顔を出すようになった。彼は名声も富も手に入れ、若き日の目標をすべて達成したのである。
だが、平野謙全集8巻を読んでいるうちに、意外な文章にぶつかった。伊藤整は、こういう順風満帆の人生を否定していたというのだ。以下は、問題の平野謙の文章である。
<「四季」伊藤整追悼号(昭和四十五年十月)の伊藤礼の『最
後の心情吐露』という文章は、つぎのような言葉で結ばれ
てある。
家庭生活において、伊藤整はほとんど心情吐露を
しなかったが、死ぬ前日になって、一生でいちばん大きな
心情吐露をしたという。「俺はバカだ。俺はバカだ」と、
何回か呟いたということである。>
伊藤整が死に臨んで、なぜ自分の人生は失敗だったと総括したのか、その真意は推察するしかない。けれども、常識的に考えれば、伊藤整は上昇欲求に突き動かされ、脇目もふらずに走り続けた自分の人生を、もっと他の生き方もあったのではないかと見直す気持ちになっていたと思われるのだ。
彼の最後の作品「変容」には、生き急ぐような形で死んだ流行作家倉田満作に対する感想が語られている。
<・・・・・彼は自分の健康を無造作に扱った。それが彼の浪費だった。彼は時間も体力も、投げ捨てるように生きていた。
そして彼のまわりには、倉田満作の生涯の終わりの黄金の滴りのような生命を吸い取り、盗み貪る友人や弟子や出版業者たちが群れていた。>
彼は、倉田満作という作中人物のなかに、自らの人生を書き込んだのであった。黄金の滴りのように貴重な生命を、ひたすら原稿を書くことで費消してしまった自分への苦い気持ちを、彼は倉田満作に託して述べているのだ。
晩年の我執三部作といわれる「氾濫」「発掘」「変容」は、成功を夢見て努力し、無事目標を達した主人公が見た荒涼たる世界を描いている。彼らは絶望しつつ、そのなかで同時に救いを予覚しているのだ。「発掘」の主人公は、「死の方に立ちのいた筈の自分が、実は理解と慈悲の体現者なる神のようなものの方へ立ちのいた、とも考えられた」と述懐している。
「発掘」を書いたときの伊藤整の年齢は58才だった。老年の心境を語るには彼は未だ若すぎたため、主人公にこうした晦渋な述懐をさせることになったのかもしれない。
人間は、ある年齢を超えると世の中を死者の目で眺めるようになる。卑近な例をあげれば、年を取るにつれて何時となく愛する妻子の未来を死者の目で眺めはじめるのだ。豊臣秀吉は、自分が亡き後の秀頼のことを心配して、有力大名を次々に病床に呼び寄せ、相手の手を固く握りしめて、「(秀頼のことを)頼みますぞ、頼みますぞ」と懇願したという。だが、秀頼は、秀吉の死後あえなく滅ぼされている。
もし秀吉に現実をあるがままに見る死者の目が備っていたら、配下の大名の手を握りながらも、我が子の将来について楽観しなかったろう。希望的観測を抱いても何の効もないことを承知していたからだ。
希望的観測が何の力を持たないことは、近親者の未来についてだけではない。社会も世界も、なるようにしかならないのである。個人が世のため人のためにどんなに献身しても世界が変わらないし、個人がどんなに熱誠を込めて祈っても、この世は明るくならない。
人は元気なうちは生者の目で世界を眺め、その上に自分の実現しようとする未来図を描く。が、60を過ぎ、退職でもして第一線を退けば、死者の目で、つまり事実唯真の目で自他を眺めるようになる。すると、個人の献身や祈りをはねつける巨大な怪物のように見えた世界が違った印象を与えるようになる。
死者の目は、希望的観測を交えない無私の目なのだ。無私の目が見るこの世は、天国でもなければ地獄でもないが、ゆったりと流れる大河のように、知と愛の実現を目指して少しずつ動いている。伊藤整の言葉を借りれば、現世は「理解と慈悲の体現者なる神のようなもの」に教導されつつ無限の運動を続けているのだ。
医師によれば、人間の遺伝子の中には死が組み込まれているという。フロイトも、人間には死を願い、死を待望する「死本能」があると言っている。冷徹な「死者の目」を背後から支えているのは、遺伝子に組み込まれている死なのではなかろうか。
人は老いることによって、生者の意識のなかに死者の目が生まれたように感じる。だが、生者の意識は自己欺瞞に覆われて常に真実を見誤るのに、死者の目はあるがままの現実を総体として受容する。死者の目は、真実直視の目なのである。
伊藤整に悔いがあったとすれば、生者の立場にとらわれて、思い切って「理解と慈悲の体現者なる神のようなもの」の方向に飛躍できないでいたことに対してだったのではないか。