甘口辛口

桜井よしこの迷論

2008/8/12(火) 午後 4:39

<桜井よしこの迷論>


先日の日曜日、「サンデープロジェクト」が「通り魔事件」を取り上げていたので、チャンネルを回してみた。出席者は、姜尚中、桜井よしこほか数名だったが、桜井よしこが相も変わらぬ迷論を繰り返していた。

彼女は中国について論じるときには、判で押したように中国側が南京虐殺の被害者数を誇張していることを責め、国内に青少年の非行や犯罪が起きると戦後に制定された日本国憲法に責任があると糾弾する。今回も、通り魔殺人事件の原因は、権利だけを強調して義務について触れない憲法にあるといっている。まるで自民党文教族の広報係である。この件に限らず、近頃の彼女は後期高齢者医療制度を弁護するなど、完全に自民党の代弁者になりさがっている。

──そこで、これから彼女の妄をただすことにするのだが、その前に今読んでいる「ベルリン終戦日記」の内容を紹介することから始めたい。

先の大戦でナチスドイツや軍国日本は、非人道的な戦争犯罪を重ねた。だが、スターリン治下のソ連もファシズム国家に劣らぬ非道なことやっているのである。その実例として日本人が記憶しているのは、戦争末期に満州になだれ込んだソ連兵の暴行と、それに続くソ連による日本軍捕虜のシベリア抑留だが、ソ連は同じようなことをドイツに対しても行っているのだ。

ドイツで制作された「9000マイルの約束」という映画を見ると、ソ連は捕虜になったドイツ兵を貨車に詰め込んでシベリアの奥地に送り込み、苛酷な強制労働をさせている。この映画は、そのシベリアから脱走して三年かけて故国に戻ってきたドイツ軍将校の体験を、実録にもとづいて描いたものである。映画による誇張もあるだろうけれども、シベリアに送り込まれたドイツ兵捕虜の味わった苦難は、日本兵のそれに劣らぬものがあった。

ドイツに進出してきたソ連兵のドイツ女性に対する凌辱も、スケールにおいて日本人女性の味わったそれよりも大きかった。何しろ、「ベルリン終戦日記」によると200万人のドイツ人女性が、ソ連兵によってレイプされているのである。

ドイツでは、ヒトラーとゲッペルスが徹底抗戦を指示したため、首都ベルリンはソ連軍に包囲されてからも抗戦をつづけ、ベルリン市民は地下室に潜んで戦闘が終わるのを待つことになった。わが国でも軍部内に一億玉砕を唱える徹底抗戦派がいたから、もし米軍が東京を武力で制圧することになったら同様な光景が出現したかもしれない。

ある朝、地上が静かになったので著者(女性ジャーナリスト)が地下室から顔を出してみると、ベルリン守備のドイツ軍兵士(少年兵や老兵)の姿はなく、代わりにソ連兵が輜重用の馬に水を飲ませたりしていた。あちこちにたむろしているソ連兵は、のんびりしていてベルリン市民に武器を向けることはなかった。

だが、夜になると酔っぱらったソ連兵が数人ずつ地下室に入り込んできて、女たちをレイプし始めた。次の夜は、別のソ連兵がやって来る。著者も何人ものソ連兵から暴行される。著者は、こういうオオカミの群れから身を守るには強い狼に頼るしかないと考えて、近くに駐屯しているソ連軍将校の愛人になることを決意する。彼女は簡単なロシア語を話せたから、頼りになりそうな巨漢の陸軍中尉に自分から働きかけ、彼専属の愛人になる。すると、相手は毎晩食料持参で部下と共に彼女の住まいにやってきて酒宴を開くようになった。おかげで、彼女は他の兵卒たちからレイプされることがなくなった。

やがて、彼女を保護してくれた中尉が転属になると、女性ジャーナリストはソ連軍少佐を愛人にする。敗戦後の東京にはパンパンと呼ばれる進駐軍相手の娼婦たちが出没したが、特定の一人だけを相手にする娼婦はオンリーといわれた。「ベルリン終戦日記」の著者は、ソ連軍将校のオンリーになることによって身を守ったのであった。

著者はオンリーとして中尉や少佐の連れてくる部下を眺めているうちに、ソ連兵の中にもレイプに手を染めないものがいることに気づくようになる。中には、著者が「カラマーゾフの兄弟」の登場人物を思わせるという理由で、アリョウシャと呼んだ兵士もいた。こういう「上質」の兵士は、自国の政治体制を公平に見ようとしている点が共通していた。

先の大戦で占領地の住民に非人間的な蛮行を働いたドイツ・日本・ソ連の兵士らは、いずれも自国の方針に誇りを持つ「愛国者」たちだった。ドイツ兵はアーリア民族、日本兵は大和民族の優秀性を信じて他国民を侮蔑していた。ソ連兵の方は共産主義社会に誇りを持ち、日・独のファシズムを憎悪していた。これら三国の兵士の行動を支えていたのは、自国に対する夜郎自大的な思い上がりだった。

そして「ベルリン終戦日記」の著者を感動させたのは、そうした夜郎自大的思い上がりを持たない兵士達だったのである。彼らは、個人主義によって偏狭な愛国心を乗り越え、人間的で自由な視点を身につけるようになっていたのだ。

自民党の文教族や桜井よしこのいう「国民としての義務」とは、その時々の社会的要求を教条化したものに過ぎない。そして時代の産物である国民的義務は、時に国民に非道なことを要求する。戦争中、人間は使い捨ての「人的資源」と考えられていたから、「産めよ殖やせよ」が国民的義務とされた。こういう人命軽視の土壌の上に、日中戦争時に皇軍下士官らによる「千人斬り」競争が展開されたのである。近代戦では、敵兵を戦闘時に斬殺することはあり得ないから、彼らは捕虜や住民を斬殺する数を競い合ったのである。

桜井よしこ達が、個人主義や自由主義を蛇蝎のように憎むのは、それらが国民的義務やモラルを溶解させ、国民をバラバラな個人に分解してしまうからだ。しかし、特定な時代の特定な社会的義務から自分を切り離し、個人としていかに生きるべきか考え、その結果が人類普遍の道に合致するところまで行ったとしたら望ましいことではないか。こうなれば、人は通り魔殺人犯などにならないのである。

再言するが、通り魔殺人の犯人は、国民的義務や国民的常識に縛られていたから、あのような行動に走ってしまったのだ。彼らが、もし個人主義の洗礼を受けて集団的意識から解き放たれていたら、もっと別の行動を選択したに違いないのである。

犯人は「殺すのは誰でもよかった」と語っている。犯人の目には、周りの人間が皆同じように見えていたのである。彼が周囲の人間をみな同じような無個性的な存在として同一視していたのは、彼自身が無個性な人間の一人だったからだろう。彼は時代の産物でしかない国民的義務や国民的モラル、つまり時代的価値観から脱却できなかったのである。彼は通俗的、平均的価値観から自分を評価し、自分を負けっ放しのダメ人間と規定してしまったのだ。

通り魔殺人の犯人は、桜井よしこがいうように現行憲法に毒されたから犯罪に走ったのではなく、個性尊重の憲法の条規を学ばなかったから犯罪に走ったのだ。国民の一人一人が個性的になり、桜井よしこのようなパターン化した古くさい考え方から抜け出たとき、通り魔殺人のような犯罪はなくなるのである。