(NHK日曜美術館「少年」ワイエス)
<大逆事件と古河力作(4)>
古河力作が新村忠雄らを猜疑の目で見るようになったのは、彼が子供の頃から一寸法師とかコビトと呼ばれて蔑まれて来た事実と関係があるのではないか、と思っていた。だが、私は「古河力作の生涯」を読み進んでいるうちにオヤと思うような文章にぶつかって、考え方を改めたのである。
弁護人だった今村力三郎は次のように書いているのだ。
「幸徳事件にありては、幸徳伝次郎、管野スガ、宮下太吉、新村忠雄の四名は事実上に争なきも、他の二十名に至りては果して大逆罪の犯意ありしや否やは大なる疑問にして、大多数の被告は不敬罪に過ぎざるものと認むるを当れりとせん」
今村力三郎は、大逆事件の犯人を幸徳・菅野・宮下・新村の四名だとして、古河力作の名前を省いているのだ。古河力作を除外したのは、今村弁護士がうっかりして書き漏らした為ではなかった。
「幸徳伝次郎は主義に於て首領たるも、大逆罪に於ては首謀者に非ず。管野すが、新村忠雄、宮下太吉の三人は或る時相議して、自分等は一身を犠牲にして事を挙ぐるも、先生(彼等伝次郎を先生と呼べり)は無政府主義者の学者なれば、我等と共に一命を失ふは惜しむに堪へたり、今後先生を除外して我等三人主として事を挙げんと、伝次郎も其の意を諒し、中途より謀議に遠ざかりしも、・・・・・」
幸徳秋水をグループからはずしたのは、菅野・新村・宮下の三人が「相議した」結果だったと明記し、ここでも古河力作の名前を省いている。
古河力作は仲間から軽く見られ、重要な相談事からオミットされていたのである。そして、すべてが決まってから事後報告という形で、決定事項を知らされていたのだ。こうしたことが続けば、古河力作ならずとも、自分が同志として見られているのではなく、単なる手駒として使われているのではないかと疑うようになるはずである。
この疑念が発展して行けば、(連中はオレにテロルを実行させて、自分たちは高見の見物を決め込むつもりでいる)という邪推にもなるのだ。
一方、菅野や新村の側からすれば、それなりに言い分があるかもしれない。古河力作とのつきあいが長くなればなるほど彼を子供扱いせざるを得なくなったからである。
力作が獄中で書いた「僕」という手記には、次のような一節がある。
<僕の理想社会は、先づ金銭の必要なき社会にして、空中飛行機にょって交通自在となり、世界の人種・言語・風俗・文明の程度悉く同一となり、地図の上に画したる国境と称する一仮定線は除かれて、世界一国となり、一家族となり、何処に至るも帰宅するの必要なく、我家なく、家庭なく、親子・兄弟・姉妹・叔姪等の関係分明ならず、他人の如くにして他人ならず、他人ならずして他人なり・・・・>
古河力作の考えている理想社会は、私有財産がなくなり、すべてが完全に共有化された社会だった。家々も共有、人々も皆家族だから、各地を自由に旅をして、どこでも好きな家に泊まることが出来る。
しかし「空中飛行機によって交通自在となり」というような文章を読めば、誰でも古河力作の幼児性のようなものに突き当たる。彼はこんなことも言っているのだ、「僕は空中無限に存する電気を利用して空中飛行機を作る事が出来ると思ふ。異種の電気は相引き同種の電気は相反すと云ふ所から考へたらよからう。雷は地に落ちるが、これをあべこべにしたら空中へ飛上る事も出来よう」。
菅野らは、力作が桂首相の暗殺を企てたという話も、彼の子供っぽい空想から生まれた白日夢ではないかと疑い始めたのだ。
実際、古河力作は子供のように信じやすく、ひとたび信じると空想を無限に拡げるようなところがあった。
だから、予審の取調中に潮判事から、社会主義否定の話を聞かされると、コロリと転向してしまう。潮判事の話は、子供に言い聞かせるような単純な内容だった。
「君たちは貧富の差のない共産社会を夢見ているが、人間の知力が同じでない以上、貧富の差が出てくるのは仕方のないことではないか。また、一家に戸主があって家族を支配している上は、一国に主権者があるのは当然のことだ」
こうした説得を受けて力作は、簡単に自分の誤りを認めるのである。調書は、以下のようになっている。
答 私ハ社会主義ノ本ヲ読ミ各人ガ幸福ヲ得ラレルト云フ故一図ニ非常ニ良イ事卜思ヒマシタケレトモ今 段々承ツテ見て判リマシタ
問 然ラハ今后被告ハ主義ヲ罷メルカ
答 罷メマス
問 此時限リ本心二反シテ罷メルト云フノテハ何モナラヌカ如何
答 貴官二誓ヒ必ラス罷メマス
潮判事の言葉に一度は動揺したものの、力作はあれこれ考えたすえに再び無政府共産の立場に復帰する。そのことは、処刑直前の父宛の遺書からも伺われるし、「僕」の内容からも知ることが出来る。
古河力作は、不敬罪程度で済むと思っていた予想が崩れ、死刑判決を受けたときに幸徳・菅野らと一緒に死んでいこうと心を決めたのである。現世にあまり未練を持っていなかった彼は、そうと決まればもう迷うことはなかった。幸徳秋水を始め一流の社会主義者たちと同格に扱われ、彼らと共に処刑されることにも誇りを感じた。
力作の処刑に立ち会った関係者は、子供のような彼が微塵の動揺を見せることなく死んでいったことに驚嘆している。だが、彼は子供のような人間だったから、平然と死んで行くことが出来たのである。
古河力作と森近運平は、解剖研究用に自身の遺体を寄付することを遺言書に書き残していたから、堺利彦は二人の遺志を実現するために東京大学法医学教室の片山国嘉博士と協議して遺体を東京大学で引き取ってもらうことにしていた。
ところが、いざとなると小金井良精博士が遺体を引き取ることを拒否したのだ。小金井良精も、一旦は大学で二人を解剖することを承諾していたのである。
「これは政府や大学の干渉があってのことではありません。無政府主義者の死体を大学で解剖するのは、世間で誤解を招くことになりかねませんので、自分個人の考えだから了承してほしいのです。断固、解剖は取りやめます」
小金井良精の言葉を聞いて憤慨した堺は、東京大学に運び込んだ遺体をそのまま放置しておいてやろうと思った。だが、思い直して落合火葬場に運んで荼毘に付している。
大逆事件に対する知識人の態度には、小金井良精式の権力や世論に迎合するタイプと、永井荷風や石川啄木のように権力の暴圧に憤慨するタイプがあった。知識人の多くは、大逆事件にフレームアップの臭いを嗅ぎ取っていたのである。しかし彼らも、公然と政府を批判することはなかった。
大逆事件以後、天皇崇拝は狂気に近いまでになり、各学校に配布された天皇の写真(「御真影」と呼ばれた)を失火などで焼いた時には、責任を取って学校長が自殺するまでになっていった(久米正雄の父)。