甘口辛口

ツキが落ちた太郎と一郎

2009/3/31(火) 午後 0:47

<ツキが落ちた太郎と一郎>


面白い投書を二つ読んだ。

一つは、朝日新聞の「声」欄に載っていた、「ツキ落ちたら無理しないで」という投書で、こんなふうに書き出されていた。

「若い頃は、マージャンに夢中だった」

マージャンでは、上手・下手にかかわらず、ツキに恵まれれば勝つし、ツキが落ちれば負ける。そこでマージャンから学んだことは、ツキが落ちたときにはじたばたしないことだというのである。

投書家は、この観点から麻生太郎と小沢一郎の出処進退について忠告する。麻生太郎はタナボタ式に首相になったところでツキが尽き、小沢一郎も首相になる直前に献金問題が発生した今の時点でツキが落ちたと判定する。そして、やんわりと、二人にこの辺で身を引くことを忠告するのだ。

つまりこれは運命論的世界観である。このマージャン的世界観を東洋の哲人の言葉でいいかえれば、「功成って退くは、天の道」(老子)ということになる。釈迦は、すべては因縁(直接原因・間接原因)によって生滅変化し、同一状態が長く続くことはないと断言している。

人間誰でも、瞬間風速的には得意の境地に立つことがある。それを自分の能力によると考えないで、ツキによるのだと考えれば、再び失意の状態に落ちても「へこむ」ことはない。実際、得意の時期など瞬間の短さで終わるのが自然界の法則なのだ。

麻生太郎と小沢一郎のツキが落ちたのは、積年の悪業の報いなのである。胸に手を当てて、これまでに自分のやってきたことを思い返せば、こうなるのも自然の理と観念せざるを得ないだろう。

もう一つの面白い投書は、信濃毎日新聞に載っていた。

朝日新聞の「声」欄は、不特定多数者に呼びかけるものだが、信濃毎日新聞の「私の声−あなたへ」は特定の個人に語りかけるもので、「中学生になる長男へ」とか、「隣に乗り合わせた女性へ」というような投書が並んでいる。その中に、「じいちゃんへ」というのがあって、これが面白かったのである。

<じいちゃんが24歳、私が22歳の春にお見合いをしました。
 親にぶつぶつ文句を言ったら、「自分の顔をよく見たか」と
 いわれ、また「ふぞろいの顔でも歯を見せていれば愛らしい
 顔になる」ともいわれ、なるほどと納得、素直が一番と結婚
 しました>

これを読んでいると、自然に笑いが浮かんでくる。職業的作家には、到底書けない文章である。

<じいちゃんはすばらしい人で、優しく、働き者で、家族を愛
 し、おばかばあちゃんの私には、本当にもったいないだんな
 様です。穏やかな性格で怒ったことがあまりありません>

これだけで、じいちゃんの素晴らしさが分かる。

<この間、身近に不幸があって、お
参りに行った帰り道、自分の姿と重
ね合わせて、共に元気で暮らして
ることに幸せを感じ、手を合わせ
した。

毎日おばかばあちゃんの愚痴
を黙って聞いてくれてありがとう
これからは、暗い話はあまりしな
ように気を付けます。暖かい日だ
りの中、しわ顔から歯を見せてア
ハハ…と笑ってお茶にします。

大好きなじいちゃん、大好きな温
泉に入って、大好きなビールを飲
で、元気で明るく長生きしてくだ
いね。じいちゃんと夫婦でよかっ
と心から思っています。四十四年
の春です。
(三浦幸子より・65歳・下高井郡)>

ここには、平凡に生きる人間の幸せがある。世俗的な地位に恋々として、首相や政党代表のポストにしがみつく老醜の徒輩が知らない幸福である。