<政治に金がかかるわけ>
今の日本国では、国が国会議員に与えている金額を総計すると、議員一人あたり年額1億円になるそうである。衆議院議員と参議院議員を足して、これに1億円をかければ、国が国会議員に給付している金額がいかに多額であるか分かるだろう。ところが、それでも足らずに、議員らは金集めに狂奔している。
なぜだろうか?
国会議員が儲かる商売だからだ。儲かる商売をはじめるには、まず投資しなければならない。国会議員であることのプラスが大きくなればなるほど、競争は激しくなり、従って投資の金額も増えてゆくのだ。
朝のワイドショウを見ていたら、スエーデンでは政治に金がかからないという。なぜ、金がかからないかというと、国会議員が儲かる商売ではないから議員志望者も少なく、従って選挙に金をかける必要もないからなのだ。
スエーデンにおける国会議員の年俸は863万円。並のサラリーマンと変わりない収入である。だからというわけではないが、国会議員になったからといって、まわりから特別視されるわけでも、尊敬されるわけでもない。どうもスエーデン国民は、国会議員を全体に奉仕する有給ボランティアみたいなものだと考えているらしいのである。
―――日本の国会議員は、合い言葉のように、「百年に一度の不況」と言いながら、国会議員の定数を減らしたり、議員への手厚い報酬を減らしたりしないでいる。
確かに、現在のような小選挙区制のもとでは国会議員を減らすのは困難かもしれない。としたら、中選挙区制に改めて、その枠内で議員数を減らせばよい。そして、議員への給与をスエーデン並みにして、現行の議員向け特典を一切廃止するのである。
そんなことをすれば、国会議員の質が低下するという反論があるかもしれない。
ここで少し学校の話をするなら、職員会議というものがある。東京都では職員会議を学校の議決機関にしてはならないというお達しが出ているそうだが、現実には全国の学校では職員会議を議決機関にしたり、校長の諮問機関にしたり、弾力的に運営している。
とにかく職員会議は学校で最も重要な機関だから、校長も神経質になって職員会議の議長輪番制に反対し、これまで教頭を議長に指定してきたのだった。だが、教員の要望に従って、議長輪番制にしてみたところ、何の問題も起こらないので、私が在職した頃は、長野県の高校では議長輪番制が当たり前になっていた。
長野県の高校が行っているもう一つの慣行に、職員の仕事を職員が選んだ「校務分掌委員会」が割り振るというシステムがある。以前は校長が誰をクラス担任にするか、誰を生活指導主任・進学係主任にするかなどを決めていたが、それを職員自身が決めるようにしたのだ。これは、実は校長にとってもありがたいことだったのである。適材適所の機微を知るものは、校長よりも職員だからだ。
在職中に学校社会でのこうした変革を経験してきたから、私は「反権力無支配」というアナーキズムの主張を決して理想論とは思っていない。中央集権的な政府などなくても、それぞれのグループが輪番制を基本に自治組織を作り、その自治組織の連合という形で国を作ればちゃんとやっていけるのである。
人はその立場に置かれれば、きちんと仕事をこなすもので、「いやだ、いやだ」といいながら職員会議の輪番制議長になった退職間際の養護教諭が名議長ぶりを見せたり、穏和な国語教師が非行生徒を指導する係になり、職員・生徒の信頼を集めたりという現象が随所に現れた。完全に無能な人間などいないのである。この日本でも、裁判員制度のもとで素人が裁判に関わる時代になってきたではないか。
代議制民主主義は、無政府制民主主義に至るまでのつなぎであり、政治に金をかけない方法を拡げて行けば自然に純粋民主主義社会に到達するのである。
ついでに言えば、皇室も自発的に経費の節減に協力すべきではないか。不況で苦しんでいる国民に心を痛めているという言葉を、言葉だけで終わらせないためには、何百人という宮内庁職員を減らし、無駄な宮廷費を削る努力を怠ってはなるまい。