甘口辛口

静かに死を迎えるには

2009/5/17(日) 午後 0:05

<静かに死を迎えるには>


亀井勝一郎は、生前、人気の高い評論家だった。文芸評論だけでなく人生論から恋愛論まで幅広く論陣を張っていた。彼は常々、死など恐れるに足りない、毎日、眠ることによって死ぬ練習をしているではないかといっていたが、死に際して彼は決して平静ではあり得なかったという。雑誌記事に、そう書いてあったのである。

しかし、平静な態度で死を迎えるかどうかは、その時の病気の状態によるのだから、こうしたことを問題にすること自体が間違っている。老衰で死ねば眠るがごとき大往生ということになるし、難病で苦しみながら死ねば、見苦しい死ということになる。だから、人間はどんな死に方をしようなどと考えずに、自然に任せた方がよい。

けれども、まだ健康なうちに、死について考えておく必要はあるかもしれない。

死については亀井勝一郎のような考え方もあるし、ギリシャの哲学者が説いたように個々の人間にとって死は存在しないという考え方もある。人間生きている時には死は存在しないし、死んでしまえば死を意識することもないから、個人の人生のどこを取ってみても死など存在しないというのがエピクロス派の考え方なのだ。

だが、これらの説はウイットに富んで面白くはあるけれども、生きて行く上で何の力にもならない。そんな話を聞いたところで、死に対する原始的な恐怖は一向に消えないのである。さりとて、現代人は、死んで天国や極楽に行くというような話を信じることも出来ない。従って、宗教に頼ることも出来ない。

としたら、ここは事実に立脚した科学的な死生観を受け入れ、それに基づいて生きるしかない。

人間がなぜ死ぬかといえば、身体を形成する細胞の一つ一つに「死の遺伝子」が組み込まれているからなのだ。細胞が老化したり、傷ついたりすると、細胞内にある死の遺伝子が細胞の骨格やDNAをバラバラに切断し、自らを崩壊させる。細菌には、そんな自己崩壊をたくらむ遺伝子が内在しないから、永遠に生き続けることが出来る。しかし、人間の細胞には自滅のためのプログラムが用意され、これに基づいて人の細胞は毎日3000億個ずつ死滅しているのである。

細胞がこんなふうに自滅していくのは、ほぼ同数の新鮮な細胞が生まれているためだ。新しく出現する若い細胞に席を譲るために、古い細胞は自ら死んで行くのである。そして、こうして自己再生を繰り返し、最後に細胞更新の命数がつきるに及んで、個人の死が到来する。

さて、動物が老いて死んで行くのも、若い世代に場所を譲るためではなかろうか。社会を構成する個々人を細胞にたとえるなら、老人は老いた細胞であり、生まれてくる子どもは新鮮な細胞ということになる。

注意しなければならないのは、細胞の場合は、死んで行く古い細胞と新しく生まれる細胞の中身は同じだが、有性生殖をする動物の場合、親と子では中身が微妙に異なるのである。

有性生殖を行う動物は、メスとオスが遺伝子を持ち寄りあって新しい世代を誕生させるために、生まれ出る子どもは両親のいずれとも同質ではない。ここに動物進化の背景がある。新しく生まれ出てくる個体が、優れた能力を持っていれば、古い世代との闘争にも同世代との生き残り戦争にも勝ち抜いて、より多くの子孫を残すことが出来る。そして、やがてはその子孫が種族の主流になる。こうした自然淘汰を伴う世代交代を重ねて来た結果、人類はここまで進歩してきたのである。

人間は、生物学的な自然淘汰によって進化するだけではない。これと平行して意識生活や精神的能力も自然淘汰によって更新し進化して行くのである。非現実的な意識を持ったり、ゆがんだ精神を持っている個体は生存競争の敗者になる。そういう個体が腕力で周囲を支配し続けたとしても、やがては寿命が尽きて倒れる。すると、その後にはより合理的で柔軟な思考力を持った個体が残るのである。

人類は旧石器時代の昔から、数万年かけて徐々に進歩し、体と心をより合理的なものに作りかえてきた。そして、その進歩は現在も継続中なのである。

私たちが、自分の死は後に続く世代に席を譲るためだと知れば、死というものを個人的な問題としてではなく、種族成長のために必要なことだと信じられるようになる。死が個人的なものなら、各人がそれぞれ死生観を確立しなければならず、独自の哲学を擁して死の恐怖に対抗しなければならない。が、種の問題として考えれば、死はそのまま受け入れられるのだ。

だが、種の問題として死を考えるには、クリアしなければならないひとつの条件がある。人類の未来に対して明るい展望を持っていなければならないということだ。人類の将来について悲観的な見方をしている者には、「未来人のために席を譲るための死」などという考えは到底受け入れることができない。後続世代が人類の進歩をさらに推し進めてくれると信じられる時にのみ、人は安んじて彼らに席を譲ることが出来るのである。

特攻隊員は、「後に続くを信づ」といって死んでいったし、一代で財産を築いた成功者は、自分の子どもが後を継いでくれることを信じて死ぬ。彼らは思い残すことなく死んで行ったろうけれども、後続世代は必ずしも彼らの期待通りに動いてはくれない。これは期待をかける次世代が、自身の子孫だったり、自分の所属する国家だったり、出来不出来があるからだ。

人間が自らの死によって席を譲るのは身内の共同体に対してではなく、総体としての人類に対してなのである。われわれがこの事実を直視し、目を空間的には地球全体、時間的には無限大の未来にまで及ぼすとき、はじめて安らかな気持ちで死を迎えることが出来るのである。

臨死の瞬間を平静に迎えられるか、苦しまなければならないかは、個人の力でどうすることも出来ない。だが、臨死以前の平時の期間を安らかに過ごせるか否かは、視野をどれだけ広く保てるかどうかで決まるのである。