<「心」の続編パートU(その5)>
「私」にとって意外だったのは、「先生」への奥さんの愛が予想していたより淡いらしいことだった。「先生」を深く敬愛していた「私」は、奥さんも同じ気持ちでいると信じていた。だから、奥さんとは、死んだ「先生」に対する愛で結ばれた人間同士として、二人で「先生」の思い出を抱いて慎ましく生きて行けると思っていたのである。
けれども奥さんは亡き夫に死ぬまで貞節を尽くすような未亡人ではなかった。「先生」と20年あまり一緒に暮らしながら、今では「先生」よりもKへの哀惜の念を深くしているらしかった。「私」は「先生」の人格を理解していない奥さんに失望しながら、いつの間にかその影響を受けて「先生」を畏敬する気持ちを少しずつ失い始めていた。
「私」の内部にあった「先生」の存在が軽くなるにつれて、逆比例して奥さんへの執着が増してくるのだ。奥さんにもいろいろ欠点があった。でも、「私」には、それらが次第に人間らしい魅力として映るようになり、「安心させてくれる男性」を求める奥さんに応えたいいう気持ちが強くなった。つまり、「私」は奥さんを女として愛し始めたのだ。
奥さんは、外出する前に自室に入り、鏡台に向かって化粧をする。同居を始めた頃、奥さんは茶の間との境の襖を閉めて化粧する自分を隠していたのに、今では襖を開けたままで、時には両肌脱ぎの格好でお白粉をつけている。「私」も遠慮がなくなっていた。奥さんの部屋を覗き込んで声をかけるのである。
「化粧なんてしなくても、十分にきれいなんだけどな」
奥さんは、「私」の方を振り返り、「もう、お婆さんなんだからダメよなのよ。せめておつくりでもしないと」といって又鏡に顔を向ける。実際、奥さんは化粧などしなくても美しかったのだ。その肌は、ねっとりと白く、その粘質の白が思わず男たちの目をひきつけるのである。
「私」は、これまで足を踏み入れたことのない奥さんの部屋に入り込んで、経机の上にある煎餅などをつまみながら、針仕事をする奥さんと話し込むことが増えていた。ある日、「私」は床の間に立てかけてある琴に目をやって、「琴を弾いてくれませんか」と頼んだ。
「イヤよ。下手なんだもの」
「いいじゃないですか、上手か下手か、一度聞いておかないと、こっちも落ち着きませんからね」
「勘弁して、もうずっと弾いていないのよ」
そんなふうに言い争っていると、いよいよ親しみが増してくる。「私」は立ち上がって、琴を奥さんの前に持ってきて置いた。すると奥さんは、「強引なんだから」と苦情を言いつつも、裁縫箱の中から象牙の爪を取りだして弾き始める。確かに下手だったが、真剣な表情で指を動かす奥さんがひどく可愛らしく見えた。
奥さんは短い曲を弾き終わると、急いで琴を片付けてしまった。そして、「どう? 下手だったでしょう」と照れたような顔で尋ねる。
「いや、ぽろん、ぽろんと琴が鳴るところは、風情があってよかった」
「ひどい人。もう絶対に琴を弾かないから」
奥さんの部屋で、口喧嘩のようなことをする日もあったが、二人が繰り返し話し合ったのは、今の家を貸家に出して自分たちは市内の別の場所に引っ越そうかという問題だった。近所の目を気にして奥さんは、「私」と並んで外に出ないようにしていたが、そんな気遣いをしなければならないことに彼女は嫌気を感じはじめていたのだ。
「先生」が亡くなったとき、子供のない奥さんは.周囲からいづれ再婚するものと見られていた。市外に住んでいる女学校時代の友人が、奥さんに対して再婚して相手の家に移るようだったら、今の家を貸すか売るかしてほしいと言って来ているというのだ。
その日も、二人は並んで庭を眺めながら、この件をめぐって、堂々巡りの意見を交わしていた。日曜の午後で、二人の間には、爪楊枝を刺した羊羹が小皿に乗せて置かれていた。
「昨日は、新宿の方を探してきたわ。あの辺は引っ越すにはいいところよ」
「しかし、別のところに移っても、同じじゃないかな。やっぱり、何んだ、かんだと噂されるよ」
「だから言っているでしょう、養子縁組を解消して、お互い無関係になればいいのよ。そして、あなたは間借り人ということにすれば、どこからも文句は出ないわ。それなのに、あなたは、渋っている」
「僕は亡き『先生』に誓っているんです。養子になって奥さんを何時までも守ります、って」
「私」はそれまで、頭になかったことを口にしていた。言ってしまったら、それが自分の本音であることに気づいた。「私」は付け加えた。
「養子でなくなったら、奥さんは僕から離れていってしまうような気がするんだ」
それを聞いて、奥さんは「私」の方に向き直り、強い目で相手を凝視した。そして両手で「私」の手を固く握りしめた。
「バカねえ、私があなたを離すと思っていたの? あなたが養子縁組を変えたくないというなら、私はこのままでもいいのよ。でも、約束して、私たち何があっても死ぬまで添い遂げるってこと」
「私」は奥さんと死ぬまで生活を共にすることを誓ったが、「添い遂げる」という言葉にこだわっていた。これは夫婦の間で使われる言葉ではないか。すると、奥さんは二人の関係を法律上は母子ということにしておいて、実質は夫婦関係にしたいのだろうか。
数ヶ月すると、暑い夏になり、二人の部屋にはそれぞれ蚊帳が釣られることになった。蚊帳を釣り終わったあとで、奥さんが提案した。
「ねえ、襖を閉めてしまうと暑苦しいから、開けておかない?」
「そうだね」と応じながら、「私」はどきんとした。あの会話以来、彼は「添い遂げる」という奥さんの言葉にこだわり続けていたのだ。奥さんは、腹を決めてこの家に留まり、自分と夫婦の関係になろうとしているのではないか。奥さんは女らしく一応近所の噂を気にしているけれども、いざとなったら覚悟を決めて思ったように行動する強さを持っている。
だが、奥さんの提案の通りにしてみると、何と言うこともなかった。寝る前に奥さんは寝間着に着替える。茶の間の電灯は光が弱いので、蚊帳の向こうで着替えをする奥さんはほとんど見えない。奥さんが蚊帳の中に入って横になっても、「私」の方も蚊帳越しに見ているから、奥さんの布団が盛り上がっているのが分かる程度なのだ。
十日ほどしたある夜、「私」がふと目覚めると奥さんの蚊帳に動きがあり、不浄に立つらしい奥さんが蚊帳をもたげて外に出てきた。蚊帳から踏み出す時、寝間着の裾が割れて、ねっとりとした太ももの奥が見えた。
「私」は茶の間を出て行った奥さんを見送ってから、夢遊病者のように奥さんの部屋に入り込んでいた。そして、何も考えることなく襖の陰に隠れて、奥さんの帰りを待った。
突然姿を現した「私」を見て、奥さんはぎょっとして一歩下がった。それを追って「私」も一歩進み、相手を抱きしめた。
「駄目――」と奥さんが言う。
「私」は何と言っていいか分からなかった。それで、力を込めて抱きしめにかかると、奥さんは腕を突っ張って、また、「駄目――」といった。「私」は混乱して言葉を失った。そして、うつけたように奥さんを抱いたままでいた。こんな筈ではなかったという思いが、ちらっと頭をよぎった。
結末は、あっけなかった。奥さんは、「私」を押しのけて、無言で蚊帳の中に入り、「私」はぼんやりとそれを見送ってから、自分の蚊帳に戻ったのである。
(つづく)