<「心」の続編パートU(その6)>
翌日、「私」は奥さんと顔を合わせたが、普段と変わりない表情をしている。「私」も沈黙を守り、何事もなかったような態度を装っていた。だが、「私」は自分の衝動的な行動を深く恥じていたのだ。
これまでの奥さんの行動に「私」を挑発するようなものがあったことは確かだったし、奥さんの「決して離さない」というような言葉に「私」への執着が溢れていたことも事実だった。しかしそれは、法律上、母と息子の関係になった奥さんが母親としての親しみを誇張して表現した結果だとも思われるのだ。それには、中年の女が若い男に示す軽いあそび心も混じっていたかも知れない。
とにかく、「私」は亡き「先生」のために奥さんを守るという殊勝な気持から奥さんと同居を始めたのである。そして、奥さんに対して不純な欲望を抱くまいとして、自分から養子になりながら、同居6ヶ月にもならないうちにあんな行動に出てしまったのだ。
あんなことをしでかしてから、「私」は針仕事をする奥さんと話をすることを避けるようになり、食事時に奥さんが話しかけても、短い返事を返すだけになった。そんなやりきれない日々を送っているうちに、ふと「私」は「先生」の遺書を読み返してみようと思い立ったのだ。そうすれば、この泥沼にはまったような精神状態から脱出するきっかけを掴めるかもしれないと考えたのである。「先生」の遺書は、「私」が田舎から持ってきている信玄袋の底に隠してあった。
――「先生」は、Kと奥さんの関係を疑って嫉妬に苦しむようになってから、Kを誘って九十九里浜を踏破する旅に出ている。炎天下の田舎道をひたすら歩き続ける苦行のような旅だった。そして、真っ黒に日焼けして、下宿に戻っている。「先生」が、この旅によって救われたかどうか定かでなかったが、「私」も「先生」にならって炎天下を旅して自分を痛めつけようと願ったのだ。折しも、残暑厳しい8月の下旬だった。
「私」は、役所から5日間の休みを取って、「先生」の「遺書」にあるように船で房総半島をまわって保田というところで下船した。それから富浦・那古を経由して銚子を目指すことにしたのだ。奥さんも、「私」が旅行することに賛成だった。部屋にこもってばかりいる「私」の気分転換になると思ったからだ。
「それで何処に行くつもり?」
「実は、未だ決めてないんです」と「私」は目的地をあかさなかった。
「まあ、のんきだこと」と奥さんは笑って「私」を送り出してくれた。
その年の残暑は特に厳しかった。「私」は海沿いの焼けつくような道を黙々と歩き始めたが、何時か「同行二人」という気持ちになっていた。「私」の頭には常に「先生」があり、「私」は「先生」と対話しながら歩いていたのである。
「先生」は繊細な心を持ち、Kの自殺を自分の責任だと思いこんで自らを責め続けた。そのうちに「先生」の思考は広がり、オリジナル・シン(原罪)について日夜思いをめぐらすようになった。「先生」はキリスト教の原罪意識を越えて、生きることそれ自体が罪だと考えるようになったのである。
「生存競争という言葉は、恐ろしい言葉だね」と先生は言ったことがある、「動物は、他の生命を奪うことによってしか存在出来ないのだから」
「先生」は、単に生物世界の食物連鎖のことだけを言っているのではなかった。男が一人の女を手に入れて妻とするまでに、ライバルの男たちを駆逐し、倒さなければならない。それだけではない、他を犠牲にすることなしに、現世で成功することは不可能なのである。
Kに死なれてからの「先生」の人生は、自己呵責に明け暮れていたが、その自己呵責は、人類の罪を背負っての自己呵責でもあった。「先生」は、またこんな話をしたこともある。
「日本には富士山信仰、御嶽山信仰のような山岳宗教があって、信者たちは定期的に山に登るそうだ。そのとき、信者たちは『懺悔』『懺悔』と言いながら登ると聞いたことがある」
「私」は「先生」の言葉を思い出して、いつの間にか「懺悔」「懺悔」と呟きながら歩いていた。そして、子供の頃から今日まで自分が犯してきたあらゆる罪を思い浮かべて、すべての人々に謝罪したいと思った。
そうした思念のためか、連日の暑さのためか、旅に出て4、5日もすると、自分がどこを歩いているのか分からなくなった。人目を避けて寂しい方へ寂しい方へと歩いているうちに、何処とも知れぬ山道に迷い込んでいたのだ。あちこちで蝉がしきりに鳴いていた。
そして昼でも薄暗い森に入り、そこを抜けると、急に視界が開けて眼下に海が見えた。
(あの海だ)と思った。
細い道をたどって山を下って行くと、途中に墓地があった。前日から何も食べていないことを思いだして、墓に供えてあった天ぷらや果物を拾って食べた。
人気のない海岸に出たので服を脱ぎ、それをキチンとたたんで積み重ね、その上に手頃な石を乗せた。すると、それが自分の墓のように見えた。海に入って、沖を目指して泳ぎ始めた。黒潮に乗れば自分は太平洋の真ん中に押し流され息絶えるだろう。そうだ、自分は海の藻屑になるためにここまで来たのだった。
沖を目指して泳いでいると、急に水質が変わって冷たくなり、ハッと正気に戻った。利根川か何か、川の水が海に流れ込んでいる区域に入ったのだ。振り返ると、陸地が遙か遠くなっている。入道雲の下に連なっている青い山並みがひどくなつかしかった。
不意に、奥さんの顔が浮かんできた。奥さんにもう一度会いたい。そして、針仕事をする奥さんと話をしたい。
必死になって、陸に戻ろうとした。だが、体は黒潮に乗ったらしく、いくら泳いでも陸は近くならない。渾身の力で泳ぎ続ける。でも、陸は遠くなるばかりだ。体の力が抜けはじめた。もう駄目だ。奥さんのやさしい笑顔に向かって、最後の別れを告げた。さよなら、奥さん、さよなら、母さん――
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「私」が目覚めたのは、隔離病舎の一室だった。偶然通りかかった漁船に拾われた「私」は、伝染病患者を隔離しておくための村営の病舎に収容されたのだった。
そこで村の医者から葡萄糖の注射を受け、役場の吏員から世話をされている間に、海岸に残して置いた衣類や財布が発見され、海水浴をしているうちに沖に流されたという「私」の弁解が立証された。
役場の助役から職業を問われたので、求職中だが思わしい仕事がないのでぶらぶらしていると答えた。すると、助役が、「だったら、暫く村の分教場で子供たちを教えてくれないか」と言い出した。今まで分教場で教えていた老齢の訓導が病気で入院し、後任の教師を捜しているところだというのだ。
「私」は承知して隔離病舎から、分教場の裏手の教員住宅に移った。分教場は、生徒数16名の複式学校で、一年生から六年生までが同じ教室で勉強していた。小さな教員住宅で起居することになった「私」は、自炊をしながら毎日学校に通った。子供たちを教えるのは楽しかった。
自分を一度死んだものと考えることにした「私」は、これまで務めていた役所に退職届けを出すことなく放っておいた。役所は無断欠勤を理由に、「私」を馘首してくれるだろう。奥さんにも、連絡しなかった。自分のような人間のことは忘れて、奥さんには新しい人生を切り開いて貰いたかったからだ。
夏が過ぎ、秋も深まって十一月になった。「私」が一日の授業を終え、分教場を閉めて帰宅してみると、奥さんが家の中で彼を待っていた。奥さんは、「私」の失踪を知ったとき故郷の近くにいるのではないかと推測して九州方面を探したが、見つからなかった。そこで「私」の所持品を徹底的に調べて、信玄袋の中から「先生」の遺書を発見し、それを読んで「私」がもしかすると「先生」の跡を追って九十九里浜を旅しているのではないかと思いついたのである。そして、とうとう「私」がここにいることを突き止めたのだ。
奥さんは、微笑して「私」に告げた。
「私は、あなたを捜して九州に行ったときに、戸主になっているあなたのお兄さんと相談して、私の戸籍からあなたの名前を抜くことにしたの。だから、あなたは私と天下晴れて結婚できるのよ」
「しかし、奥さんはあのとき――」
「あんなふうな形で結ばれるのがイヤだったのよ。でも、あれであなたが私を欲しがっていることが分かって、うれしかったわ」
「何だ、そうだったのか」といって私は立ち上がった、「これから晩飯を作ります。奥さんも手伝ってくれますね」
奥さんの微笑は笑顔に変わった。
「そうよ。それでいいのよ。そんな調子で、何でも私に言いつけて頂戴」
(追記)最初のプランでは、****のところで終わらせる予定でしたが。
(おわり)