甘口辛口

良い政治家・悪い政治家

2009/8/24(月) 午後 9:08


  (上図:若き日の周恩来)
  (下図:金大中)

<良い政治家・悪い政治家>

「良い政治家」

最近100年間に限っていえば、アジアの生んだ最も良い政治家は周恩来ではなかろうか。周恩来に次ぐ良い政治家は、先日亡くなった金大中だと考える。

金大中は、生涯かけて人権と平和のために闘った政治家だった。彼は韓国民の人権を守るために軍事独裁政権(朴正煕・全斗煥)と闘い、しばしば死の瀬戸際に立たされた。また、彼は反日運動が燃えさかる時代に、韓国民の世論に逆らうような形で、対日融和政策を進めたし、北朝鮮に対しても「太陽政策」を行って南北間の緊張緩和に努めた。

周恩来も、人権と平和のために最大限の努力を払った政治家だった。日本は金大中から恩恵を受けたように周恩来からも多大な恩恵を受けている。

中国は、日中戦争によって日本から物的にも人的にも筆舌に尽くしがたい損害を受けている。だから、中国は日本に対して、いくらでも賠償金を請求できる立場にあったが、中国は周恩来の政治的決断によって、そうしなかった。聡明な彼は、いずれ日本が復興して経済強国になることを見越していた。彼は、日本が復興してから日本による対中国経済協力を引き出した方が、中国にとっても日本にとっても互いにトクになると考えたのだ。

金大中の対日友好政策も、同じような配慮から出ている。周恩来と金大中に共通するのは、人道的な観点から平和と国際協調を目指しながら、それが結局自国の繁栄に繋がると冷徹な計算をしていたことだった。二人は、人道を追求する理想主義者としての半面、転んでもただでは起きない現実主義者という一面を併せ持っていたのである。

周恩来は世界人的な意識もつ政治家だったから、冷戦下の当時、対立関係にあったにもかかわらず米国とも日本とも国交を結んでいる。彼の卓越した国際感覚は、1917年から1920年にかけての日本留学と、4年間に及ぶヨーロッパ留学によって磨き上げられたものだった。

彼は一時期、蒋介石率いる国民党の最大の敵であり、国民党秘密警察が暗殺すべき敵のリストのトップに置かれていた。中国共産党内での彼の勢威は、毛沢東よりも上位にあった。

周恩来は学生運動を通じて中国共産党の幹部になったという経歴から、都市を拠点にして国民党や日本と闘う作戦を立てていた。しかし農民運動出身の毛沢東は、農村を主力とする戦略を主張し(「都市を農村で包囲する」)、両者の方針は対立していた。だが、周恩来は、毛沢東戦略の方がより効果的だと知ると、それ以後、毛沢東を支えるナンバーツーとして生きることになる。

毛沢東は党のトップになると、他の幹部を次々に追放したが、周恩来だけは一目置いて手放さなかった。周恩来がきわめて有能で毛沢東も彼の力に依存せざるを得なかったし、周恩来は毛沢東の疑念を呼ぶような行動に出なかったからだ。彼は、他の幹部たちとは異なり、党内に自己の派閥を作らなかった。周恩来は、派閥を作って党派活動を行うようなことからは、最も遠くにいる人物だった。

周恩来は、毛沢東主席の下で20数年間総理の職にあった。彼は毛沢東のはじめた文化大革命に反対しなかった点で、批判されている。だが、彼は江青ら四人組や紅衛兵の行き過ぎを抑え、処刑寸前まで追い詰められた党員を何人も救っている。周恩来は私心のない公平な人物として知られていたから、彼が弁護すれば無実の罪に問われていた多くの党員が救われたのである。

周恩来は、生前、自分の彫像や肖像画を一切作らせなかった。個人崇拝のようなものを彼は唾棄していたのである。彼は自分の墓が贅をこらしたものになることを恐れ、死後に自分を火葬にして、遺骨と遺灰を飛行機から空中にまき散らすように遺言している。そのため、現在、周恩来の墓は何処にもない。

彼は政敵の陰謀によりしばしば窮地に立たされたが、相手に復讐したことはなかった。周恩来は寛容であり、感情に走らず、慎重で用心深かった。激動の中国にあって、彼が「不倒翁」と呼ばれたのはこのためだった。

復讐欲という点では、金大中も厳しく自己を抑制している。韓国では、新たに当選した大統領が、政敵だった前大統領を訴追して投獄することを繰り返して来たけれども、金大中は東京のホテルに滞在中に韓国の秘密警察に拉致されながら、前政権の責任を問うことをしなかった。拉致された彼は船で韓国に連行される途中、海に投棄されそうになっている。そして、これを命じた高官の個人名も明らかになっていたにもかかわらず、彼はすべてを許したのだ。


「悪い政治家」

日本にも、良い政治家はいた。戦前の犬養毅や、戦後の石橋湛山、河野洋平などは立派な政治家だったが首相としての在任期間が短かった。河野洋平などは自民党の総裁になりながら、首相になることなく終わっている。

悪い政治家とは、良い政治家の特質――人権尊重・平和擁護の逆を行く政治家である。戦前で言えば山県有朋、戦後で言えば小泉純一郎が悪い政治家の典型ではなかろうか。

小泉純一郎が田中角栄派(竹下登派)の候補を相手に敗北覚悟で二度も総裁選に立候補している。その頃は、私も密かに彼を声援してHPにこんなことを書いている。

<どうやら彼(小泉純一郎)は一本杉のような単独型人間らしい。「大物」政治家のまわりには何人かの側近がいるのが普通なのに、彼はそうしたものを持たず、国会でも、一人で図書室にこもって本を読んでいることが多いという。彼が、一人でいても平気なのは、多方面の趣味を持ち、自分を充足させる手段には事欠かないためらしいのだ。

小泉首相は、過去に負けると分かっている総裁選挙に二度も出ている。こうした行動は、計算高いエリート系の政治家には到底出来ない。自己施肥系で培った独自の個性を持つ人間だけに可能な行動なのだ。独自のモラルを持った人間は、乞食をしても平気でいられる。

彼は人気が高くなろうが、低くなろうが、あまり意に介しないタイプなのだ。だからこそ自民党を牛耳ってきた橋本派に戦いを挑むことが出来たのである。小泉首相は、事やぶれて孤立無援の立場になっても、落ち込むようなことはあるまい。その意味では、彼は信頼に値する人物なのである>

ところが、その後の小泉の行動を見ると、こちらの期待を裏切ることばかりだった。彼は確かに「一本杉のような単独型人間」に見えたけれども、それは彼が自己顕示のための個人プレーに徹する人間だったからだった。彼は日本遺族会の代表をしている対立候補を引きずりおろすために、総裁選の前に、「何があろうと靖国神社例祭に参拝する」と大見得を切った。それまでの彼は、靖国神社などに何の関心も払っていなかったのである。

小泉は靖国神社参拝が中国国民や韓国民を憤激させ、日本を孤立させても平気だった。彼はまた、「自己責任」を説いて福祉予算を削減し、日本を世にも惨めな格差社会にしてしまったが、それも平気だった。小泉の致命的欠陥は人間尊重の精神に欠けることだったのだ。

良い政治家が人権と平和のために努力しても、その政権は短命に終わり、悪い政治家が人権と平和を蹂躙するような政策を強行すれば、その政権は却って長続きする――これが戦後日本政治史の特徴だった。今度の選挙で、こういう奇妙な構図に少しは変化の兆しが見られるだろうか。