甘口辛口

「六三制社会」から、無政府社会へ

2009/8/31(月) 午後 7:31

<「六三制社会」から、無政府社会へ>


55年体制以後の日本にあっては、多数派と少数派がハッキリ色分けされていた。国会の議席について見ると、自民党が多数派、社会党が少数派で、両党の比率は自民60パーセント、社会30パーセントになっていた。保守と革新の比率が6−3という政治状況を長年見続けているうちに、この比率は、たいていの社会現象に適用できるのではないかという気がしてきたのだ。

その頃、プロ野球の世界では巨人の人気が圧倒的で、これにアンチ巨人派(阪神ファンなど)が対抗していたが、巨人ファンとアンチ巨人派の比率も、目分量で6対3になっていた。そこで私は、55年体制以後の日本社会を「六三制社会」と呼ぶことにしたのである。

そして、考えたのである。この「六三制社会」を支えているのは日本人の性格に二つのタイプがあるためではないか、つまり日本国民の性格タイプが大勢順応型60パー、判官贔屓型30パーになっているからだと考えたのだ(残りの10パーは、公明党・共産党などに所属する信念グループ)。もちろん、これは暇つぶしの「冗談理論」でしかなかったのだけれども。

だが、東西の冷戦が終結すると、「六三制社会」論も通用しなくなった。この「理論」はアメリカを中心とする資本主義国家と、ソ連を中心とする共産主義国家が6−3の割合になっているという世界史的状況を背景にした理論なのだから、東西の冷戦が終わってしまえば役に立たなくなるのは理の当然なのだ。

冷戦後に目だつようになったのは、多数派と少数派の相当数が右翼・左翼の陣営から離れて、マスコミの影響を強く受けるマス追随型に変わったことだった。そこで、リースマンの大衆社会論から用語を借用して、日本人の人間タイプを新たに解釈し直さなければならなくなった。

衆知のように、リースマンは現代社会を構成する人間タイプを、伝統志向型、内的志向型、他人志向型に分けている。この三タイプを、保守志向型、リベラル志向型、マス志向型に読み替え、さらに保守志向型を自由民主党型、リベラル志向型を民主党及び野党型、マス志向型を無党派型に読み替えれば、ほぼ現代日本の政党地図が出来上がるのである。

今回の衆議院選挙は、前回の選挙結果を裏返しにしたような形になった。前回の「郵政選挙」は自民党の圧勝に終わったが、これは無党派層が小泉式ペテン作戦にひっかかって自民党支持に走ったからだった。今回の選挙では、無党派層が自民党支持層の一部分を引き込みながら民主党支持に向かったため民主党の圧勝になったのだが、では、なぜ無党派層が反自民に動いたかといえば、麻生首相の底なしともいえる愚かしさに愛想を尽かしたからだった。

選挙中、麻生首相は、「自民党には責任力がある」と自画自賛を続けた。「責任力」などという日本語はどんな辞書にも出ていない。それに、中途で政権を投げ出した安倍晋三・福田康夫の記憶がまだ新しいうちに党の責任力を誇るなど、まるで学校を二年続けて落第した劣等生が自らの成績を自慢するようなものだったから、無党派層は呆れてしまったのだ。

やがて首相は、選挙中に中川昭一からの助言を受け、右派系保守の取り込みをはかるようになった。

「皆さん、民主党は党大会を開くときに、国旗を掲げることをしないんですよ」

と、いかにも嘆かわしいという顔をして見せたり、民主党の党旗は日の丸を二つ繋げた形になっている、国旗を侮辱するこうした行為は許し難いと非難しはじめたのだ。10年前だったら、こんな時代錯誤な演説を聞いて喜ぶ年配者も多かったかもしれない。だが、今ではそんな年配者も、減少しつつあるのだ。

――ともあれ、わが国でも二大政党による政権交代が緒に就いたように見える。この方式が最良のものとは思えないが、当面はこれを発展させて行くしか手はないかもしれない。健全な形で二大政党制が成立するためには、自民党と民主党がそれぞれの思想的基盤と政策を洗練させて行かなくてはならない、自民は健全な保守、民主は健全なリベラルというように。そのためには、無党派層がその時々に正しい政権選択をして、両党に刺激を与え続ける必要がある。日本の将来を決定するのは、無党派層にかかっているのである。

私としては、二大政党制を通して最終的にはリベラル派が勝利することを望んでいる。そして、福祉国家が成熟して無政府社会へと移行することを期待している。しかし、これは、遠い未来のことになりそうである。