(屋敷林に隠れた家)
<坂口安吾の謎(その4)>
坂口安吾が、生涯に何人かのマドンナに恵まれたという表現は当たらないかもしれない。「恵まれた」のではなく、マドンナを必要としていた安吾がマドンナ的な女人を自ら創り出していたといった方が正しいのだ。彼にとって、最初のマドンナは腹違いの義姉であった。
安吾は、大地主の家に生まれている。父親は県会議長から衆議院議員に転身した新潟県でも指折りの政治家で、同時に新潟米穀株式取引所理事長・新潟新聞社長を兼ねる事業家でもあった。安吾は自分の家について、「私の家は大金満家であったようだ。徳川時代は田地のほかに銀山だの銅山を持ち阿賀野川の水がかれてもあそこの金はかれないなどと言われたそうだが、父が使い果たして私が物心ついたときはひどい貧乏であった」と書いている。
借金で首が回らなくなったのに、坂口家の広大な邸内には書生や食客がごろごろしており、たくさんの女中・下男がいたから、主婦の苦労は並大抵ではなかった。おまけに安吾の母は、先妻の子供三人のほかに、自身で生んだ九人の子供と夫が他所の女に生ませた女児一人を引き取って、併せて13人の子供を育てていたから、ひどいヒステリーになっていた。安吾によれば、母の怒りと憎しみは十二番目の子供である安吾一人に集中していたという。安吾が早熟な腕白小僧だったからである。
事実、安吾は早熟な子供だった。
<私は小学校へ上らぬうちから新聞を読んでいた。その読み方が子供みたいに字を読むのが楽しくて読んでいるのではないので、書いてあることが面白いから熟読しており、特に講談(そのころは小説の外に必ず講談が載っていた。私は小説は読まなかった。面白くなかったのだ)を読み、角力の記事を読む。
・・・・私は予習も復習も宿題もしたためしがなく、学校から帰ると入口へカバンを投げ入れて夜まで遊びに行く。餓鬼大将で、勉強しないと叱られる子供を無理に呼びだし、この呼びだしに応じないと私に殴られたりするから子供は母親よりも私を怖れて窓からぬけだしてきたりして、私は鼻つまみであった。
・・・・夜になって家へ帰ると、母は門をしめ、戸にカンヌキをかけて私を入れてくれない。私と母との関係は憎み合うことであった。(「石の思い」)>
母と憎み合いながら、実は安吾は母を深く愛していた。彼は、「私ほど母を愛していた子供はなかった」と自伝の中で自信を持って言い切っている。
安吾は、母がハマグリを食べたいと言ったのを耳にして、その日は暴風だったにもかかわらず、荒れ狂う海に出かけてハマグリを取って来たのだった。だが、母は安吾が命がけで取ってきたハマグリを見向きもしなかった。安吾は母を睨みつけ、痩せ我慢の肩をそびやかせて自室に閉じこもった。すると、この一部始終を脇から見ていた義姉が、そっと彼の部屋に忍んできて、安吾を抱きしめて泣いてくれたのである。
この義姉は、先妻が遺していった三人の娘の一人で、姉二人が義母を憎んで毒殺の相談をしている時に、彼女だけは義母に憎まれながらも義母を慕っていたのだ。
安吾は「石の思い」の中にこう書いている──「私は母の違うこの姉が誰よりも好きだったので、この姉の死に至るまで、私ははるかな思慕を絶やしたことがなかった」
安吾が、子供の頃からマドンナを必要としたのは、彼が幼い頃から屈折した内面を持っていたからだった。坂口安吾は太宰治、田中英光などと並んで破滅型の作家に数えられている。だが、彼には青空や太陽、正義と愛を目指す剛直な向日性があって、その意味で彼は極めて男性的な作家だった。戦後に、彼が「堕落論」や「白痴」をひっさげて登場し、人々に強い衝撃を与えたのも、このギラギラするような向日性のためだったのである。
しかし、安吾は、行動的な世界を描きながら、行為の後の悲哀や、事果てた後の空しさに触れずにはいられない作家だった。彼は中学時代にテストの際、白紙答案を出して意気揚々と教室を出て行く自分を描写する。だが、そのあとでこう書くのである。
「私は英雄のような気取った様子でアバヨと外へ出て行くが、私の胸は切なさで破れないのが不思議であった」
安吾は、明るいもの健康なものを目指して直進する「陽」の世界と、それとは 裏腹な関係になっている「行動に伴う自虐と悲哀の世界」を表現する。そして、彼は自分の文学が自虐と悲哀の世界を基軸に展開していると解説するのだ。
彼は周囲の人間を評価する時にも、悲しみを知るかどうかを基準にしていた。相手がどんな著名人でも、人の子の悲しみを知らない場合には本能的に反発してしまう。その点で、安吾の父は、まったく人の悲しみをしらない人間だった。安吾は父親を、「幼い心を失っている」哀れな人間だと語っている。そして、「私は先ず第一に父のスケールの小ささを泣きたいほど切なく胸に焼き付けているのだ。父は表面豪放であったが、実はうんざりするほど小さな律儀者であり、律儀者でありながら、実は小さな悪党であったと思う」と断罪し、父を自分とは関係のない「うるさい奴」「威張りくさった奴」と突き放してしまうのだ。
表向き活発でありながら、裏に回れば悲しさと切なさでいっぱいになっている少年には、自分を支えてくれる母性的なマドンナが必要だったのだ。安吾にとって、義姉は彼を静かに見守っている、優しくて高貴な存在だった。彼がそういう義姉を思慕すると、そのことで彼の生命が高みに方向付けられ、矛盾する様々な欲求や感情がその形のままで鎮められるような気がした。
義姉の死後に、安吾と母の関係が変化している。彼と母は、家族の中で最も親しい関係になったのである。安吾は母と同居し、母の最後を看取っている。安吾は、母の死後も母のことを折あるごとに思い返していた。安吾の妻が書いた「クラクラ日記」には、次のような記事が見える。
<十六日には禁断症状の最初の徴候が現われ始めた。なぜ十六日と云う日をはっきり覚えているかと云うと二月十六日が彼の母の命日で、十六日の朝、彼が泣いていたからだった。ふとんの衿をかみしめるようにして彼が涙をこぼし、泣いていたからだった。
「今日はオッカサマの命日で、オッカサマがオレを助けに来て下さるだろう」
そう言って、懸命に何かをこらえているような様子であった(「クラクラ日記」)>
この日記を読むと、禁断症状の苦しみの中で、安吾は母親のイメージに取りすがっている。何時しか安吾の内部で母のイメージが変化し、マドンナに近いものになっていたのである。
安吾と矢田津世子の恋愛が不毛なものに終わったのも、安吾が津世子をマドンナ視して動きが取れなくなったからではなかろうか。