<坂口安吾の謎(その6)>
安吾が矢田津世子と出会ったのは安吾26才、津世子25才の時だった。そして、二人が別れたのは安吾30才、津世子29才の時だから、交際期間は4年ということになる。しかし二人の交際には、3年に及ぶ長い中断期間があるので、交際期間は実質1年しかなかった。
安吾は当初、矢田津世子を「弥勒菩薩」のような女と考えており、彼女が時事新報の和田部長の愛人だと分かってからも、まだ相手を「聖なる娼婦」と「聖」づけで呼んでいた。こんな具合に彼が津世子をマドンナ扱いしている段階では、二人の関係はプラトニックな関係を超えたものになる可能性はなかった。
津世子に手を出せなかった彼は、もっと気安くつきあえる女性を求めて遍歴を重ねている。吉原のバーで知り合った女給や坂本睦子、そしてお安と呼ばれる女たちである。バーで知り合った女は、安吾の表現によると、「お人好しで、明るくて、頭が悪くて、くったくのない女」だった。素っ裸になって体操するかと思うと、突然安吾に抱きついてゲラゲラ笑ったりする。
彼女は女給になる以前、バスの車掌をしていた。メーデーか何かの折りに、赤旗をかつぐのが羨ましくて車掌になったけれども、おつりの出し入れをするのが面倒くさくなって辞めてしまったという女だった。彼女は、矢田津世子とは正反対の女で、安吾はそうした相手のバカバカしいほど明るいところに惹かれたのである。
坂本睦子は、小林秀雄や河上徹太郎に求婚されたという文壇で有名なバーのホステスであり、大岡昇平の「花影」のヒロインである。彼女が自殺したときには通夜に多くの作家たちが集まり、その席上で大岡昇平は人目をはばからず大泣きをしている。安吾は、この女とも関係を持っていた。
お安はバーのマダムで、別れた夫との間に娘をもうけていたが、当時まだ離婚していなかった。そんな女と安吾が同棲したのも、矢田津世子を忘れたい一心からだった。そして二人は、以後一度も会うことなく過ぎている。
安吾が津世子と再会するのは、彼がお安と同棲していたアパートを引き払って母の住む蒲田の家に戻ってからだった。彼が帰宅して数日後に、津世子が訪ねてきたのである。
<すると、その三日目か四日目ぐらいに、あの人が訪ねてきたのだ。四年ぶりのことである。母の家へ戻ったことを、遠方から透視していたようであった。常に見まもり、そして帰宅を待ちかねて、やってきたのだ。別れたばかりの女のことも知りぬいていた。
・・・・あの人が訪ねてきたとき、私はちょうど、玄関の隣りの茶の間に一人で坐っていた。そして私が取次にでた。
あの人は青ざめて、私を睨んで立っていた。無言であった。睨みつづけることしか、できないようであった。私の方から、お上りなさい、と言葉をかけた。
テーブルをはさんで椅子にかけて、二人は睨みあっていた。
私は私のヒゲヅラが気にかかっていたのを忘れない。その私にくらべれば、矢田さんは一っのことしか思いこんでいなかったようだ。やがて私をハッキリと、ひときわ睨みすくめて、言った。
「私はあなたのお顔を見たら、一と言だけ怒鳴って、扉をしめて、すぐ立去るつもりでした。私はあなたを愛しています、と、その一と言だけ」(「三十才」坂口安吾)>
安吾は気圧されながら答える。
「僕もあなたを愛していました。四年前、キチガイのように、思いつづけていたのです」
すると津世子は、「四年前に、四年前に」と変にだるそうな口調で繰り返した、「なぜ四年前に、それを仰って下さらなかったのです」
──こうして二人は再び往来するようになったが、彼らの交渉は一ヶ月しか続かなかった。二人の立場は逆転し、安吾は忘れられた作家になっていたのに反し、矢田津世子は盛名をはせる人気作家になっていたからだ。
四年前には、安吾の母も津世子の母も、二人が結婚するものと予想し、そうなることを望んでいた。だが、安吾と再会した津世子には、もうその気がなくなっていた。彼女は久し振りに再会した安吾と顔を合わせるたびに、あなたは才能があるのだから、とか天才なんだからとかいって励ますのだが、安吾には相手が彼の将来性に疑問を持ち、そして彼の貧しさを嫌悪していることを知っていた。
<三十の矢田津世子は武装していた。二人で旅行したいなどとは言わなかった。私も言わなかった。二十七の私たちは、愛情の告白はできなかったが、向いあっているだけで安らかであり、甘い夢があった。三十の私たちは、のッぴきならぬ愛情を告白しあい、武装して、睨み合っているだけで、身動きすらもできない有様であった。
あの人も、大人になっていたのだ(「三十才」坂口安吾)>
二人は、ものの30分も対座していると、10年も睨みあっていたようにへとへとになった。別れるときの津世子の顔は老婆のように疲れ、やつれていた。安吾は、津世子をタクシーに乗せて送り出すとき、彼女が鉛色の目を彼に向け、もう我慢が出来ないというようにその目を閉じてしまうのをハッキリと見た。
この日まで、安吾は矢田津世子の存在によって生かされていたのだ。彼女を生命の火として生きていたのである。だが、安吾が夢に描き、恋い焦がれていた矢田津世子は、最早どこにもいなかった。
彼は津世子をこの世で最も不潔な魂を持った女だと考えようとした。その不潔な女をさらに辱めようとして、津世子とは逆の高貴な魂を持った聖女を思い浮かべようとすると、いつの間にかその聖なる女が矢田津世子になっているのだった。
再会して一ヶ月ほどしたある日、津世子から安吾宛の速達が届いた。ご馳走したいから、帝大前のフランス料理店に来てくれという内容だった。それを読んだ瞬間に安吾は、二人の関係に決着をつけるために暴力を振るってでも津世子を自分のものにしようと思った。
だが、指定されたレストランに行って食事をしているうちに、安吾は自分の下心が津世子に読まれてしまっていることに気がつく。それでも彼は、敢えて引っ越したばかりの菊富士ホテル屋根裏の塔のような部屋に津世子を招き入れた。部屋は狭いので、二人はベットに並んで座るしかなかった。そこで彼らは生涯で一度だけの接吻を交わすのである。
この接吻について、安吾は、「 彼女の顔は死のように蒼ざめており、私たちの間には、冬よりも冷たいものが立ちはだかって(いた)」と述べている。相手が接吻されながら 死人のように何の反応も示さなかったことで、安吾は二人の関係が完全に終わったことを知るのである。
すべては終わり、なにもかも元に戻らないのだ。安吾は、津世子が帰った後で、絶交の手紙を書いた──ということになっている(実際には、絶縁の手紙が津世子の方から来たので、安吾はもう一度だけ会ってほしいと懇願し、それが容れられなかったために、彼からも絶交の手紙を送ったらしい)。
近藤富枝の「花影の人」によると、この時期に津世子は次のようなメモを書き残しているという。
「私が彼を愛してゐるのは、実際にあるがままの彼を愛してゐるのではなくして、私が勝手に想像し、つくりあげてゐる彼を愛してゐるのです。だが、私は実物の彼に会ふと、何らの感興もわかず、何等の愛情もそそられぬ。
そして、私は実体の彼からのがれたい余り彼のあらばかりをさがし出した。しかしそのあらを、私の心は創造してゐたのである」
安吾と津世子が別れたのは、昭和11年のことで(津世子はその8年後の昭和19年に結核のため死去している)、安吾が津世子との恋愛をテーマにした「二十七才」を書いたのは、彼女との別離から11年後の昭和22年のことだ。そして「二十七才」の続編「三十才」を書き終えた昭和23年頃から、安吾のアドルムとヒロポンの服用が深刻化し始めるのである。
安吾が矢田津世子について書いたことと、彼の薬物依存が始まったことの間に関連があると言えば、牽強付会の説になる。しかし、私はそんな風な想像をして見たいのである。
坂口安吾は常識の所有者だったから、薬物依存が何をもたらすかを十分承知していた。だから、20代の初めに神経衰弱などの症状に陥ったときにも、薬によることなく意志の力で乗り切ったのである。そういう彼が、10錠が致死量だというアドルムの服用量を増やしていった背景には、死んでもかまわないというような投げやりな心情が生まれていたように思われる。
そして、「死んでもかまわないという心情」が生まれたのには、矢田津世子の思い出が深くかかわっているように思われるのだ。
未完(続きは、別の題目で、後日書くつもり)