(「彼女」と「彼」)
<映画「いつか読書する日」の謎>
録画したままになっていたビデオテープを取り出して再生したら、「いつか読書する日」という映画のタイトルが現れた。後で調べてみたらこれは、2005年の「キネマ旬報」でベストテンの3位になった映画だった。してみると、これをWOWOWから録画したのは、ずいぶん前のことにななる。
ビデオを見たら、確かに「キネマ旬報」第三位に相応しい良い映画だった。だが、内容に分からないところがいくつかあり、謎の多い映画だったのである。
ストーリーは、中年の男女がバイクで相乗りしている途中、交通事故にあって二人とも死んでしまうというところから始まる。この男女は不倫関係にあり、それぞれに高校生の子供がいたのだ。不倫女の子供は娘で、これが映画のヒロイン。この娘は母親と二人だけで暮らしていたが、自分の母親が多情な女だと知っていたから、母親と一緒に死んだ男を母親に騙された被害者だと思い、相手側の家族に対して罪の意識を抱くようになる。
不倫男の子供の方は男で、不倫女の娘と同じ高校に通っており、しかも娘とは恋仲の関係にあった。つまり、不倫関係にある男女の、その子供たちもまた恋愛関係にあったのである。だが、親たちの悲劇を機に高校生の二人は別れ、別々の人生を歩むことになる。
娘は自分が住んでいる長崎の街を愛していて、15歳の時にすでに一生この街から離れまいと心に決めていた。彼女は母の死後、母の友人に引き取られて、その庇護下に高校を卒業する。そして、一人暮らしを始めてから、生涯独身で生きていこうと決心し、朝は牛乳配達、昼間はスーパーのレジをしながら、30年を独身のまま過ごすことになる。
彼女の唯一の楽しみは、読書することだった。高校生の頃、読書感想文コンクールに入賞したことがあり、その時分から彼女は本と共に生きてきたといってもよかった。彼女は毎日新聞を読み終わると、紙面の下にある新刊書の広告を調べ、読みたいものがあるとその広告を切り抜いて箱に入れるのを日課にしていた。だから、彼女の家には立派な書架があって、そこに30年間に買い溜めた本がずらっと並んでいるのである。
一方、不倫男の息子も長崎に帰ってきて市役所の職員になり、不幸な子供たちを保護する児童福祉の仕事を担当している。彼は朝、電車に乗って役所に通勤するとき、線路脇の道路を自転車に乗って職場に急ぐ「彼女」を窓越しに見ていた。だが、彼は彼女に声をかけようとはしなかった。彼はその理由を自分に向かってこう説明していた――「自分は平凡な人間として生きることを選択した。だから『彼女』との愛を再燃させてはならないのだ。『彼女』の存在は自分の平穏な人生を狂わせる危険があるからだ」
彼は自分をそうやって納得させて、別の女性と結婚する。だが、妻になった女は、夫が「彼女」を愛していることを知っていた。妻は不治の病にかかって寝たきりになってから、自分の死後に夫をその女性と結婚させたいと考えるようになる。それが自分を献身的に看病してくれる夫に報いる唯一の方法だと信じていたからだった。
不思議なのは、ここからである。
「彼」は、ほとんど毎日、妻の代わりにスーパーに行って買い物をしている。そのスーパーのレジには彼女がいるのだが、彼は彼女と目を合わせることをしない。彼女の方も、彼が店に来ていることを知りながら、何も気がつかないような振りをしている。
「彼」はまた、毎朝出勤の電車の窓から、自転車に乗った彼女を見ている。彼は電車に乗ると、何時も彼女を見ることの出来る窓際に立つことにしているのに、彼女の姿を認めると視線をそらしてしまうのだ。
「彼女」は毎朝、彼の家に二本の牛乳を届けている。ところが、彼はその牛乳を門口の小箱から取って来て、一本を妻に渡し、自分の分の牛乳を飲まずに台所の流しに捨ててしまったりする。
彼と彼女は同じ街に住み、肌を接するほど間近に近づくことがあっても、縁もゆかりもない他人として行動している。この二人の態度は、不可解に見える。さらに死期が迫った「彼」の妻が、自分の死後彼女と一緒になってほしいと頼んでも彼は聞き流してしまうのだ。そこで妻は牛乳の空き瓶にメモを入れて 彼女を病室に呼び寄せ、夫に頼んだと同じ事を懇願する。が、彼女もはかばかしい返事をしない。
これは、一体どうしたことだろうか。
外国人には分からないかもしれないし、もしかすると現代の若者にも理解できないかもしれない。だが、ある程度年を取ってくると、日本人はこの映画にあるような男女の関係を何となく理解するようになるのだ。
「葉隠」は秘めたる恋が最高の恋だと強調し、武士たる者、相手への愛を一生隠し通すべきだと説いている。こうした葉隠的愛への郷愁のようなものが日本人の心に脈々と伝わってきているのだ。行動を抑えることによって、欲求は層一層と純化され、行動する以上の喜びを味わうことが出来る。自己を抑制することによってのみ、永遠の世界に参入できるという「抑制の美学」。
──やがて、彼の妻は亡くなり、「彼女」は彼の家に毎日一本の牛乳を届けるようになる。しかし彼のために届けた牛乳が、翌朝手つかずのまま残されていることが続くと、相手の意固地な態度に彼女の怒りが次第にふくれあがり、ある日遂に彼女は、「私の届けている牛乳を飲んで下さい」と彼を詰るのだ。
これがきっかけになって二人は、彼らの親が事故死した場所に連れ立って出かけて道ばたに花を捧げる。その後で、彼女は尋ねるのである。
「あなたは高校にいた頃、急に私を避けるようになったけれど、どうしてなの?」
彼は体育の時間に、自分がプールで溺れかけたことを彼女に思い出させる。
「あのとき、君は笑ったんだよ。それで僕は、自分が君に笑われるような男だと知ったんだ」
彼女は自分が笑ったことを覚えていなかった。
彼女はそんなことを根に持って何時までもすねている男を滑稽に思ったが、彼を自宅に連れて行って男と女の関係になるのである。これで目出度し、目出度し、ということになったら、「キネマ旬報」三位にはならない。
児童福祉の仕事をしていた「彼」は、川沿いの道を歩いていて世話をしていた子供が溺れかけているのを発見し、これを救おうとして川に飛び込んで溺死してしまうのだ。水の中から引き上げられた彼は、顔に不思議な笑いを浮かべていた。
映画は、彼の不思議な笑顔を意味ありげに繰り返し大写しにする。だが、私には彼が何故笑っているのか皆目分からなかった。
もっと分からないのは、この映画の題名で、なぜ「いつか読書する日」となっているのかということだ。彼に死なれて不幸のどん底に落ちたヒロインに向かって、昔、高校生だった彼女の世話をした「おばさん」が、「これから、どうするの?」と質問する。すると、ヒロインは、普段の表情に戻って、「本でも読みます」と答える。この幕切れの場面は、光っているけれども、これから本を読もうとしているヒロインをつかまえて、「いつか読書する日」は、ないではないか。
本を読んでいても、テレビを見ていても、昔はすらすら通り過ぎていたところに引っかかって、先へ進めなくなることが増えて来た。これも老耄現象なのだろうか。