甘口辛口

「見神体験」のあと(その1)

2010/1/26(火) 午後 8:53

<「見神体験」のあと(その1)>


前々回、綱島梁川の見神体験について紹介した際、「光」体験などはありふれたことで、それほどの意味はないと注釈をつけておいた。だが、考えてみると、これは暴論というべきであって、体験はそれまで知らなかった別の世界に目を開かせる効果(回心効果)がある。それで、体験の後に何がくるかという問題について考えるために、やはり「単純な生活」からもう少し追加して引用することにする。

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 綱島梁川は「見神実験」後、数日間「狐につままれた」ような気持でいた。梁川に限らず、これはすべての回心者に共通する反応だろうと思う。知れ切っていると思われた意識の下底で、正に瞠目に値する怪異が突発したのだから、事柄の意味がつかめないまゝ、呆然と日を送ることになるのは自然の成り行きと云ってよい。

特に回心者を惑わせるのは、歓喜した翌日の内面が、以前と同じ「鬼窟」に戻ってしまっていることだ。二時間という長い間、感涙にむせんだパスカルですら事情は同じだった。前述の通り、パスカルの回心については身近にいる者の誰も気づかなかった。彼が本当に信仰者になったのは、それから数年後のことで、それ迄は彼の日常には何の変化も現れなかったからだ。

 内部の機械構造について無知のまま使用している器具をブラックボックスという。大半の人間にとっては、テレビも電話もブラックボックスである。しかし、私達の所有する最大のブラックボックスは、私達自身の心なのだ。回心現象を経験した者は、誰もがこのことを痛感する。自宅の床下に、途方もなく壮麗な地下室があることを発見した住人があるとしたら、彼の心境は回心経験者のそれに近い。四十才を過ぎてから回心したソクラテスは、口を開けば「汝自身を知れ」、「無知であることを知ることが肝要だ」と説くようになるが、これは同様の経験をした人間すべての実感なのである。

 やがて回心者達は、それまでには見られなかったような振舞いを示しはじめる。これは回心のもたらした直接的な効果であり、これらの行為に彼らが回心によって得たものが反映しているのである。それは、彼らの身につけている世俗的なものを世間に還付して行くという行為なのだ。アウグスティヌスは、それ迄続けていた昇進のための工作や結婚準備を打切ったのみならず、ミラノ国立学校修辞学教授の職を辞職してしまう。回心から二カ月後のことであった。

わが国の回心者達が取った一般的な方法は「出家遁世」であった。一遍上人・西行以下の遁世者達は、はじめ世俗的な欲求にかられて世間の内部で奔走した。彼らは幸福な家庭を築き、相応の地位や富も手に入れた。しかし、欲望を充たすにつれて、自分の得たものの全体に対して云いようのない嫌悪を抱くようになった。自分の所有する様々の世間的価値が「負荷」と感じられるようになったのである。タバコのヤニを呑まされた蛙は、胃の腑を口から吐き出し、裏返しにした胃を水でキレイさっぱり洗うそうである。遁世者達にとっては、世俗的感情によって支えられている自己の所有物が、蛙にとってのヤニのような毒として感じられはじめるのだ。彼らは一挙に全部を放棄してしまう。西行は足に取りすがる幼いわが子を縁側から蹴落して出家したという伝説を持っている。
 
「経験」以後の私の行路はどうであったろうか。

病後、時間講師を四年務めた後に、ようやく私は正規の教諭職に任用されて、木曽の県立高校に赴任した。木曽は私の郷里の伊那谷とは、中央アルプスをへだてた隣りの谷である。教諭任用と時を同じくして結婚した私は、結局、木曽で新世帯を持つことになったのである。

 木曽の風土は伊那にくらべて陰暗な感じがする。谷間が狭いので耕地に乏しく、住民は山林に頼って生きている。民家は谷の窪みや斜面に寄り添うような恰好で群がっていて、人情はすこぶる濃やかであった。人々は寒々とした風土に抗するように、「痛飲」という感じで酒を飲み、年に数回、祭礼などの折に叩きつけるような仕方でエネルギ1を発散させた。高校のある町が、一年で最も賑うのは、水無神社の祭礼の日だった。この日には、木曽谷の各所からこの町へ、溢れんばかりに見物客が押しかける。

そして、その雑踏の夜、「神輿まくり」と呼ばれる荒々しい行事が繰りひろげられるのである。 それは太い角材と部厚い白木を使って頑強無類の神輿を作り、二、三十人の男達が一晩中かかってこれを縦に横に町中ころがし廻る行事であった。男達は汗と興奮で全身を火のように輝やかせながら、神輿がバラバラに壊れてしまうまで横転させ続ける。それは男達が情念の底に封じ込めている破壊衝動を、心ゆくまで満足させるための手のこんだ遊びであった。

 この谷の盆踊りは打って変って物悲しい空気に包まれる。盆踊りが開かれる役場前の広場には、照明もスピーカーもなく、峡谷の夜の暗さがそのまま地面に届いている。こゝに浴衣を着た男女が集まって輪を作り、輪の中の一人が歌う木曽節に合わせて影のように静かに踊って行くのだ。

拡声器もなく、照明もない。歌うのは一人だけであり、唄の種顆も木曽節だけであった。この陰気で自閉的な踊りは、見物客が誰もいなくなった深夜になっても未だ続くのである。

木曽の陰暗な風土に接した時、自然に私はこの狭くて小さな谷を自分の「庵室」にして精進しようと思った。頭がそう考えたのではない。意識の下のもう一人の私がそう考えたのだ。木曽に赴任してから、不如意続きでいろいろ苛立つことが多かったが、その反面で私はこういう条件の悪いところこそ今の自分が一番求めている適地なのだとも思った。光を求める「道場」として、これ以上の場所はない。

僻地に赴任し、世俗と手を切って生きられるようになったことは、大いに喜ぶべきことではないか。道元も「深山幽谷」の中に居を求めよと勧めているのだ。実際、私は世間と縁を切るためにあれこれ手を尽していた。木曽に着任以来、私は日曜ごとに水筒に水をつめて外へ出かけたが、これも「遁世」行為の一つだったのである。

外出する時は、大抵、妻と一緒であった。町の周辺を歩きつくすと、今度は汽車に乗って見知らぬ村を訪ねて廻った。名所旧蹟のたぐいには興味はなく、たゞ人のいないところを求めて歩いた。私が訪ね歩いているのは世間から隔絶した静安な空間にほかならなかった。私は、「壷中の天地」を探していたのである。

 適当な小駅で降りて駅の構外に出ると、鉄道線路と平行に走る国道がある。人家は道の両側だけにあり、暫く国道を進むと両側の家並がまばらになって、周囲に田んぼしかない淋しい道筋に出る。そこで今度は方向を転じて、山の方角に歩き出すのだ。木曽の水田は、階段状に次第に高くなって、最後は山襞の間に楔形にせり上がる。私は田んぼの終った位置に腰を下して、今昇って来たばかりの緩傾斜の耕地を眺めるのが好きだった。そうしていると、雛壇の最上段からあたりを観望しているような気分になるのだ。

 「こんなところに家を作って暮せたらなあ」

 とよく呟いたが、妻は黙って私の言葉を聞いていた。

 帰宅すると、禅書を取り出して読んだ。昔は抵抗のあった「無門関」や「碧巌録」が、今や詩集でも読むようにすらすら読める。これも「経験」のもたらした功徳の一つだった。だが、私の心を最も深く打つのは、やはり「福音書」と「老子」であった。

(つづく)