甘口辛口

「見神体験」のあと(その2)

2010/1/27(水) 午後 2:43

<「見神体験」のあと(その2)>


 私は修学旅行に生徒を引率して出かける時にも、ポケットに新約聖書をしのばせていた。名古屋行きの列車に生徒達が乗り込み、皆が座席に落付いたのを見届けてから、隣りの車室に移り、一人になって本を開く。そして、ヨハネ伝などを鉛筆で傍線を引きながら読んで行くのだ。時々、顔をあげて、南木曽・恵那などの風物を目で確かめてから本に戻る。こうして名古屋に着くまでに、ヨハネ伝の構造をすっか頭に入れたことがあった。

 福音書をはじめて読んだのは時間講師をしていた頃である。この時には、たゞ、福音書に出てくるイエスが、へんになまなましい実在感をもって描かれていることを知って驚いたゞけであった。すぐれた文学作品に登場する人物には、現実の人間よりもっと強いリアリティが感じられるが、イエスにもその種の実在感が感じられたのだ。

 イエスは、世に出る以前から、孤独な陰影を色濃く身にまとった男であった。彼は二十九才になっても未だ独身のまま、母マリアと多くの弟を扶養する無名の労働者だった。この無口な家長に率いられた弟たちが、長兄に対して親愛の情を抱いていたとは、とても思えない。後に、イエスが弟子達にかこまれて帰省して来た時、たまたま表に出て来てこの光景を認めた弟の一人は、家の中へ駆け戻るなり、「兄さんが気違いになったんで、皆が連れて来てくれたぞ」と家族に告げている。

少くともこの弟は、イエスをそのうちに発狂しかねない変人だと思っていたのである。隣人たちも同様であった。イエスが村の会堂で説教した時、人々は、「彼は何時、こんなに物識りになったろう」と怪しむばかりで、彼の言葉に耳を傾ける者はなかった。彼は周囲に誰一人、理解者を持たない独身者・独学者として二十九年間をナザレ村で過していたのである。

 世の中をすっかり諦らめ切っていたこの男が、急に胸をときめかしたのはヨルダン河畔に出現したヨハネの噂を耳にした時であった。おれと同じょうなことを考えている男がいるらしいとイエスは思い、稼業を休んでヨハネという男を「見物」しに出かける。そして、イエスは相手が自分よりもっと鋭利に、もっと辛辣に、現世を糾弾するのを聞いて、ヨハネの弟子になることを決意する。

だが、イエスはヨハネの下で日夜その痛烈な現世否定の説教を聞いているうちに、逆に「すべてを許す神」というイメージを頭の中で育てはじめる。彼はその着想を発展させる為にヨハネの下を去り、荒野にこもって四十日四十夜の瞑想にしずむのである。

 荒野を出たイエスは、ガラリヤ湖のほとりカペナウムを拠点にして新しい福音を説きはじめた。伝道初期のイエスほど好感の持てる人物は他にいないだろう。彼の周囲に集ってくる聴衆は無教養な庶民たちだった。だから彼は、葡萄園労働者の賃金の問題だの、放蕩息子への遺産分けの問題を例話にして、「神の国」に関する極めて単純平明な説明を試みたのだ。

イエスによれば、「神の国」は私達が対世間的な生き方をしているうちに見失っ
てしまった本来的な世界を意味している。「山上の垂訓」でイエスが描写した本来的な人間関係、この世に処するあり方は、レトルトの中から取り出したばかりの純粋結晶体のように美しい。

 イエスは世間というものを交換原理で動く「算術的な世界」だと考えていた。たえず祈り断食をする者は、世間からその行動に房わしい敬意を集める。私達が誰かに好意を示せば、相手も私達に愛を返してくれる。イエスは世間が不公平で片手落ちだと非難したことは一度もない。むしろ世間は「神」のごとく公正であって、私達が努力すれば、その量に応じた報酬を正確に返してくれる。その点で現世は、信頼に値する機械装置のようなものだった。だからこそ、世間的営為は空しいのである。世間を相手に何かすることは、山彦を求めて叫ぶようなものである。大きく叫べば大きな山彦が、小さく叫べば小さな山彦が戻ってくる。

だが、祈る時に密室で祈れば、他人の賞賛は期待できない。だがそのことで神への通路が開けるのである。対世間的収支を考慮に入れなければ、それとは異なる新しい収支の世界が展らける。イエスは、目に見えるものを相互間で単に置き換えてみるに過ぎない算術的交換原理の上に、目に見えないものを授受することで成り立つもうーつの世界を置く。もう一つの世界とは、与えることによって豊になり、与えることがそのまゝ受けることになる非算術的な世界であった。

 世間的に充足している人間は、もうそれ以上のものを持つことができない。これはおれのものだと自分の所有物を囲い込む者は、それと一緒に自分を世界から隔離してしまう。自分の城を持った者は、それと引換えにそれ以外の世界を失うのである。

 反対に何も持たぬ貧しき者、拠るべき何の主義や信条を持たない「心貧しき者」は、それ故にすべてを持ち、この世界を自己の家とし、人類のすべてを自己の同胞とすることができる。互いに賛辞のやりとりをし、自分によせられる賞賛の言葉だけを聞いてすっかり満悦している人間の行詰り。世間的な不満を、世間の中で充そうとするのではなく、世間の外で、目に見えないものによって充たそうとする人間
に来臨する「神の国」の豊かさ。

イエスは「この世的なもの」を超えて人が遠くに投げかける希求は、必ず充されると、自らの体験を通して再三再四保証する。

 人は世間的光栄のまわりに蝟集するが、より拡大な世界の側から見れば、それは人間を封じ込めて盲目にする牢獄でしかない。世間が中心礎石と見るものは、より大きな世界に置き直して見れば隅石であり、世間の見棄てている隅石こそが、「神の国」の中心礎石なのだ。

リルケの秀逸な比喩を借りれば、世間的人間は写真のネガフィルムを見ているのである。世間は、本当は暗い部分を明るいと見、明るい部分を暗いと思い込む。イエスはこのネガフィルムを反転させて世界を本来の布置に戻したのだ。本来の布置を備えた世界、それが「神の国」なのである。

 私達が普段「神」と呼んでいるものも、ネガフィルムの神である。社会通念上の神は、真実の神の特徴を一つも含んでいない。「私は神を信じる」と誰かが云う時、言う者と聞く者が同時に頭の中に思い浮べるような神は何処にも存在しない。

「神」・・・・それは個体としての人間の持つ本質的な暗さが、偽妄の光点を求めて作りあげた虚像でしかない。神はガス状の脊椎動物で、神殿の中にヤドカリのように棲息しているのだろうか。自分を信じる者、自分に献身する者だけに報酬を与える勘定高い小商人のような存在なのだろうか。欠陥人間を創造した自らの不手際を棚にあげて、悪人を地獄に落すことに喜びを感じるサディストなのだろうか。

 イエスの説く神は、人間の世間的幸・不幸とは、直接かかわりを持たぬ神であった。「カイザルのものはカイザルに返せ」という神である。この神は現実の世界を今直ぐにどうこうしようとはしない。世界をこのまゝにしておいて、世界に対する私達の態度だけを転換させる。結局は自己愛の変形でしかないような肉親愛・祖国愛を棄てゝ、この世界を丸ごと受容する全体愛を持てば、救済はたちどころに現成し、私達は現在のこの瞬間に、この身このままで天国を実感できるのだ。

イエスの神は、こういう内面的な体験の中でのみ感得される神であり、この内面体験を欠いたなら、見ることも聞くこともできない神なのだ。ヨハネ伝は「いまだかって神を見た者はいない」と断言するのだが、私達が生きる姿勢を転換しさえすれば、神の国は「汝らのたゞ中にある」のである。

(つづく)