<「見神体験」のあと(その3)>
だが、イエスはどうしてエルサルム入城というような「愚行」を敢えてしたのであろうか。
この悲劇的な行動によって、彼は自身の理論をも裏切ってしまった。「人を裁くな」と教えたイエスがバリサイ人を厳しく裁き、この世のことはこの世に委せよと云った男が、現世に挑戦するためにエルサレムへの旅に出るのである。しかも彼はそこへ赴けば、自分が犬のように捕殺されるであろうことをはっきり予感しつつ旅立つのである。イエスは自分から望んでネズミ取りにかゝりに行くネズミであった。
彼の直弟子の多くは、イエスが首都を制覇するであろうことを疑わず、喜々としてイエスの後に従ったが、イエスの表情は旅の最初から暗かった。浮かれ切った弟子達にかこまれた沈痛な指導者。奇妙な師弟による異様な旅であった。
エルサレムに入城した時、イエスの孤独は絶望的なまでに深まっていた。彼は身に降りかかる火の粉を、一かけらも払おうとしなかった。群集への説教には不可解なものが混じり、次第にそれは独語のようなものに変って行った。彼はすべてをあきらめ切った悲しげな表情でユダの裏切りを許し、程なく逮捕の手が襲いかかると知れ切ったゲッセマネへと赴くのだ。逮捕されてからは救助の手をことごとく拒み、
ゴルゴダの丘への道を黙って歩いて行った。イエスは自分の前に待ち構えているものを何一つ避けることなく、それらの一切を自らの負うべき業苦として残らず引き受けたのだった。
私は福音書を読むたびに、ハピーエンドをもって終らない物語を読むような気がする。イエスは私心のない男だった。愛すべき人物だった。その彼が最後には犬よりもみじめに打ち殺されるのだ。アンハピーな物語のもたらす重い不充足感・やり場のない怒りはどうして生じるのか。
それは私達に解決不能の問いを残し、私達を暗い底なし沼の前に置きざりにするからだ。イエスは死んで光は消え、現世の不条理は何の説明もなしにそのまゝ残る。私たちの前で、世界は緘黙する。女たちがイエスの遺体を葬って去って行ったあとに、黙秘する世界が残るのである。
パウロはこうしたイエスの行動の中に、自身を神への供物として奉げようとするイエスの悲壮な覚悟を読み取った。しかし、神がそのような人間供物を求めているとはとても思えない。結局のところ、私にはイエスの行動が理解できなかった。
私に理解できたのは、イエスが生れてから死ぬ時まで、終始この世の囚人として生きたということだった。イエスにとって、この世に生きることは、獄につくのと同じことだったのである。彼は息たえる瞬間に、加害者たちの行動をすべて許した。それは解放されて牢獄から出て行く者が、牢獄に未だ残っている者たちの行動をすべて許すようなものだったに違いない。
(つづく)