女が生き直すとき(2)
北村サヨは、知人から皇室の悪口を言わないように注意されると、満面に朱を注いで、「やかましい」と怒鳴り返した。しかし、知人と別れて帰途についたときに、彼女は腹の中のものが自分に語りかけるのに気づいた。
「おサヨよ、皇室の悪口を言うと、そのうちにつかまって死刑になるぞ。お前ばかりじゃない、長男の義人(ヨシト)は責任を感じて腹を切るし、亭主の清之進は気が違って死んでしまう。そして、お前のところの目腐れ財産は、親戚に分け取りされてしまうからな」
腹中の神にそう言われて、サヨは、(自分はこれまで、邪神に使われていたのか)という疑念に襲われた。それで、急いで家に戻り、神前に正座して問いかける。
「わしは邪神に使われちょるのか、正神に使われちょるのか」
すると、腹のなかからこういう返事が戻ってきた。
「正神じゃがのう、誰かが犠牲になって、国救いをやらにゃ、この国は駄目になるぞ」
その声を聞いて、サヨは覚悟を決めた。
「ようし、家中の者が死んで、目腐れ財産がなくなるくらいのことならかまわん。この国が救えるなら、わしを好きなように使ってたまえ」
サヨが、そう誓った瞬間に、彼女の体が何かの力で宙に2尺ばかり引き上げられたという。
彼女は、敗戦の年の元旦から本格的な布教活動を始めている。サヨは当初、我欲をすてて無我の域に達することが出来れば、人と神が合一すると説いていたというから、ほぼ既成宗教と同じような説教をしていたのである。ところが、そのサヨが独自の説法を開始するようになったのだ。日本が戦争に負けた時からだった。
敗戦の翌日の8月16日、熊毛高等学校で行われた説法で、彼女は信者らに向かって、われがねのような声で叫んだ。
「蛆(ウジ)の乞食よ、目を覚ませ。ほいとの乞食も、目を覚ませ。国賊乞食も、目を覚ませ。天の岩戸は、開けたぞ」
サヨは、説法の中で、「蛆の乞食」という表現を頻繁に使っている。彼女は、この言葉について、信者にこう解説する。
「蛆の乞食とは、便所の蛆が自分だけ上にあがろうと、蛆が蛆を踏み台にして、あがきもがきしている姿じゃ。蛆の乞食が地位や名誉や金を得んがため、裏道横道手ずる足ずる菓子箱まで使って、あがいているじゃないか、これを蛆の乞食というんじゃ」
水洗便所しか知らない若い世代には、糞槽だの蛆だのといわれても、ぴんとこないかも知れない。和風便所の時代には、トイレに入って眼下を見れば、糞尿をたたえた便槽があり、そこに白いウジ虫が無数にうごめいていたのだ。私の勤務する女子高校にアメリカの女子高生が留学生としてやってきたことがある。学校で和風トイレを体験した彼女の第一声は、「学校のトイレって、本当にテリブル」というものだった。
北村サヨの腹に神が入ってから、日本を見る彼女の目が少しずつ変化し始めた。そして、ついに美しい神の国として映っていた日本が、ウジ虫がひしめく便槽のような国に変わってしまったのだ。
それまでのサヨは、偉い人や学校の教師が教える皇国史観をそのまま信じ込んで、日本を世界で一番優秀な国だと思っていた。世界の何処を探したって、生きている神様に治めてもらっている国なんかないし、そして世界の何処にも日本人のように道徳を守って清らかに生きている国民はいない・・・・。
彼女は、生まれたときから「日本よい国、強い国」という神話を頭に刷り込まれて来ていた。それで偉い人たちを心から尊敬し、両親に孝養を尽くし、結婚したら夫の言いつけを固く守って過ごしてきた。結婚後は、隣り近所が目を見張るほど真っ黒になって働いた。だが、年を取るにつれて、彼女はもはや社会に対する疑問を押さえることが出来なくなった。
物資が欠乏して、毎日の暮らしがどんどん苦しくなるのに、地位のある人間は役得を利用し、ずる賢い人間は闇商売に精を出している。そして生き神さまである天皇は飾り物にされて、皇居の奥深くで惰眠をむさぼっている━━こんなことで、いいのだろうか。
日本に幻滅し、日本国家を「糞桶」に譬えた日本人が同時代にもう一人いた。大正・昭和期に活躍した作家の有島武郎で、彼は麹町の一等地に敷地面積1200坪を擁する大邸宅に住み、子供の頃は大正天皇の学友に選ばれるほど優秀な少年だったが、青年期になると日本の社会は糞尿の詰まった糞桶だと感じるようになった。有島は、日本国家の統治機構を日本社会の醜悪面を隠す「蓋(フタ)」にほかならないといっている。
北村サヨも有島武郎も、超が付くほど真面目な人間だったから、国家に対する疑問を無理矢理押さえつけていた。その二人が一転して日本を糞壺や糞桶に譬えるようになったのは、彼らの内面に「事実感覚」と呼ぶべきものが強く動いていたからだった。人は、世に合わせて生きていくための「現実感覚」を持っている。だが、それ以外に生きていくための約束事を虚偽と見る「事実感覚」も併せ持っているのだ。
サヨは「嫁しては夫に従うべきだ」という世俗の仕来りに従って、夫をたててきたが、彼女の「事実認識」に従えば、一家のリーダーになるのは意気地なしの夫よりも、彼女自身であるべきだった。だから、サヨは腹に神が宿るようになってから、寝ている夫の枕を蹴飛ばして自分がリーダーであることを宣言したのだった。
同様に「事実認識」によれば、日本のリーダーは天皇ではなくて、彼女自身であるべきだった。そこでサヨは天照皇大神宮教を発足させ、国民の指導に取りかかったのである。彼女の信じるところによれば、天照大神の降臨した場所は東京の皇居ではなく、山口県のサヨの家なのであった。
そのうちに説法する彼女の体が小刻みに動くようになったと思うと、サヨは無我の踊りを踊り出した。やがて北村サヨは信者を引き連れて東京に乗り込み、衆人環視の中で踊り歌いながら説法するようになる。まさにアメノウズメが敗戦後の日本に再来したのである。
アメノウズメの現代版は、北村サヨだけではない。
私は鶴見俊輔の「アメノウズメ伝」を読みながら、内田春菊や中村うさぎを思い出していた。彼女らも現代版アメノウズメではなかろうか。人気の女性エッセイストであるこの両名は、自らの失敗、愚行、悪癖をさらけ出すことによって、つまり個人としての秘所をさらけ出すことによって、笑いを取っている。特に、中村ウサギは整形手術によって顔の造作を変えることが好きだと告白するかと思えば、ホスト狂いやブランド物の買い漁りで大金を浪費している現状をありのままに報告する。そこまでするかと思うほど、何もかもぶちまけるのである。
男が書いた恥さらしの私小説を読んでも、あまり面白いとは思わない。あっけらかんとした感じや爽快感がないのである。ところが、女の書いたものは、一種白痴美的な無防備の魅力があるのだ。
先月、週刊誌か雑誌で、岩井志麻子という女性のコラムを読んだら、中村うさぎとはまた違った恥さらし体験を文にしていた。早速、インターネットで探して彼女の本を二冊注文した。しかし、届いた彼女の本は、二冊ともホラー小説だった。岩井志麻子は、アメノウズメ型のエッセイストではなく、普通の小説家だったのである。
まあ、こうした失敗はあるけれども、アメノウズメ型女流作家の作品を読めば、確実に元気回復の笑いを体験することが出来るのである。