甘口辛口

女の心に鬼が棲む(2)

2012/1/19(木) 午後 1:34
女の心に鬼が棲む(2)

「桜の森の満開の下」を読んで、直ぐに気がつくことは、満開の桜と美女がパラレルな関係になっていることだ。満開の桜には、美しいというよりも、むしろ凄絶といった感じがあり、鬼気迫るという印象を見るものに与える。桜の花がなぜ美しいかといえば、木の下に人間の死体が埋まっていて、その血肉を吸いあげるからだと表現した作家もいる。

静かな桜の森には、ごうごうと風が吹いているというイメージを提示した坂口安吾は、美しい女の内部には残忍な鬼が隠れているという秘密を開示して見せた。桜の森にはごうごうと風が吹き、美しい女の内面にはおどろおどろしい鬼女が棲んでいると言ってのけたところに、安吾の独創があったのである。

しかし、安吾は基本的にはフェミニストだったから、女の正体に照明を当てるところまでは行っていない。「桜の森の満開の下」を読んで唯一われわれが啓発されるのは、彼が女の欲望にはキリがないこと、その欲望は直線的に一方向に進むだけで変化も進化もないと指摘しているところではなかろうか。

これに比べると、大岡昇平は、淡々とした筆致で女の残酷さを描いている。そこには極彩色で女を描いた安吾作品のような衝撃力はないけれども、大岡の作品を読んだ後には、残像としてメスのように鋭く輝く恐怖が脳裏に残るのだ。

次に紹介しようとする大岡の作品は、「一寸法師後日譚」である。この短編は昭和26年10月に発表されている。坂口安吾の「桜の森の満開の下」が雑誌「肉体」に載ったのは、昭和22年6月だから、もしかすると大岡は安吾の「桜の森」を読んで刺激を受け、「一寸法師」を書いたのかもしれない。

さて、一寸法師はジイサン・バアサンに大事に育てられて何不自由なく暮らしていたにもかかわらず、京の都に出かけると言い出し、お椀の舟に箸の櫂で無事に都に到着する。そして、都で一番偉い三条の宰相のお屋敷に乗り込んで求職活動をするのだ。宰相は一寸法師を眺めて、三歳になる姫君の遊び相手兼お守り役として彼を雇うことにする。

一寸法師は、ある日、寺の参詣に出かける姫の肩に乗って外出し、姫に襲いかかった鬼と戦うことになった。
針の刀をふるって奮戦した一寸法師は、鬼の目を針で突き刺して撃退する。逃げ出した鬼が「打ち出の小槌」を落として行ったから、一寸法師は、この魔法の槌を使って体を大きくして、姫の婿になるのである。そして、堀河中納言と呼ばれるところまで出世する。

ここまでは昔話にあるとおりなのだが、このあとが大岡昇平流の創作になる。

一日の勤めを終えて、内裏から帰ってくる一寸法師改め堀河中納言が奥方に話すことと言ったら、宮中での誰彼の所行、近づく除目の予想ばかりだった。田舎のジジ・ババに育てられ、身の丈は大人の親指しかなかった一寸法師は、何重もの劣等感を抱え込んでいて、それ故に、幼い頃から立身出世の欲望に取り憑かれていたのだった。彼がお椀の舟に乗って都へやってきたのも、都で一番偉い三条の宰相に仕えることにしたのも、上昇欲求を充たすためだったのである。

しかし、生まれたときから宰相の娘だった奥方にとっては、そんな夫を眺めるほど興醒めなことはなかった。彼女は、三歳の時から、夫を手に乗せ肩にとまらせて、清水詣、北山の花見と遊び歩いたものだった。あの頃、一寸法師は外出した姫が何か怖いものを見て怯えたりすると、耳元に口を付けて大声で、

「心配ご無用、私がついていますよ」

と呼ばわり、針の剣を振るって威張って見せたものだった。あの頃の、無邪気だった一寸法師はどこに行ってしまったろうか。

奥方は、夫があまり出世にこだわるのを見て苦言を呈した。

「あの小槌をお振りになれば、何でも思いのままではございませぬか。何故そのようなことに、お心をお使いになるのでございますか」

すると、夫は答えるのである。

「いや、何でも思いがかのうては面白うない。打ち出の槌は、身丈を尋常にまで大きくし、御身を妻としただけで十分じゃ。自分の力で昇進してこそ、男子の本懐というものだ」

夫婦の間に溝が出来たのにつけ込んで、宮中一の色好みだった入野の少将が奥方に近づいてくる。彼は宰相一家とは遠縁の関係だったから、以前から屋敷に出入りして奥方と親しくしていたのだ。彼は、急に屋敷にしげしげと訪ねてくるようになり、ここを先途と熱をこめて奥方を口説いた。

「あの立身のことしか頭にない中納言殿に、何故そうも操をお立てになるのです」

「わたしの頭にあるのは、一寸法師だった頃の夫の面影なのです。あの腕白で無邪気だった頃の夫が忘れられないのです」

入野の少将は、吐息と共にささやいた。

「出来ることなら、私もいっそ一寸法師になりたいものでございます」

「そのようなことを軽々しく口にしてはなりませぬ。ほんとに一寸法師になったら、どうなさいます」

「かまいませんよ。私はただ、この身を一寸に縮める手だてがないのを恨むばかりです」

「手だては、ございます。打ち出の小槌がありますもの」

入野の少将はぎょっとしたが、ここで弱みを見せては折角ここまで来た努力が無駄になる。そこで彼は、「どのような異形のものにされようと、いといはしません」と言い切ってしまった。

「よろしゅうございますか」と奥方は断って、「小さくなれ、少将さまが小さくなれ」
                             
と叫びながら、槌を打ち振った。

すると効果覿面、入野の少将は練衣の上に、直衣をふわりとほどよくかけた姿のまま、春の淡雪のとけるが如く、するすると低く、小さくなって行った。

じーんと耳鳴りがしたのは、丈が五尺三寸から一寸に締ったに準じて、鼓膜もそれだけ薄くなり、気圧が急にこたえて来たからで、それから四、五日馴れるまでは、少将は何も聞えなかった。やたらに光がして、眼も開けていられなくなった。閉じた瞼の裏にまで、赤い影がちらつく。

「助けてくれい」

と叫ぼうにも、舌は動かず、喉は、鉛のように重く感ぜられる空気を、飲むように吸い、押すように吐くのが精一杯である。少将は地虫のように唖で盲目になってしまったのである。
  
(つづく)