甘口辛口

愛は変容する(2)

2012/10/2(火) 午後 5:28
愛は変容する(2)

河野裕子の人柄について家族がどう思っていたかといえば、息子は、「直球勝負のひとだった」と言っている。思ったことを、誰に遠慮することもなくズバズバ言ってのける女性だったというのだ。

夫の永田和宏は、「ひとことで言えば、カワイイ女だった」と言い、一度笑い出すと、笑いが止まらなくなるような陽性の性格だったという。ガンを病む以前は、こうした陽気で明るい性格で、夫や子供たちを引っ張っていったのである。

夫婦仲もよかった。結婚して40年が過ぎても、夫婦は一緒に風呂に入っていたらしいし、妻が発病したとき、永田和宏は妻の症状に気がつかなかった責任は自分にもあると語ってもいる。つまり、彼は、日頃、妻の乳房を愛撫していながら、ガンのしこりに気がつかないでいた自らの迂闊を責めていたのだ。

河野裕子は、女性上位の夫婦関係を築いているように見せかけながら、実は、夫に全面的に依存して生きていた。彼女は夫の助言がなければ、歌会に着て行く着物を選ぶことも出来なかった。行動的で明るい性格に見せかけながら、実は、気が小さくて人付き合いの苦手だった彼女は、何をするにも夫が「それでいいよ」とOKを出してくれなければ、安心して動くことが出来なかったのだ。裕子は永田の表情に目をやり、彼が自分のすることを是認しているときだけ、心おきなく行動することが出来た。

裕子は、信頼できる親に見守られながら、元気に遊ぶ子供のようなものだった。永田和宏が妻を「カワイイ女」と感じたのも、相手が夫である自分を信じ切り、彼の意見に従って行動していたからだった。妻が夫の表情を絶えず気にしているとしたら、夫は妻を安心させるために、何時も平然としている必要があった。妻を動揺させないためには、夫の情緒が不安定であってはならなかったのである。

永田和宏は妻が闘病生活にはいると、相手を動揺させないために、以前にもまして平然とした態度で妻に接した。妻には、平然としている夫の態度が冷淡に見えるかも知れない。だが、彼が心配しているところを見せたりすれば、妻の不安は募る一方なのだ。

この時期に、永田は次のような歌を詠んでいる。

  平然と振る舞うほかはあらざるを
      その平然をひとは悲しむ

夫の永田は、妻が病気になってからは一層慎重なた態度で妻に接するようになった。妻の裕子はガンが転移することを恐れ、抗ガン剤による体調の悪化に苦しんでいた。そういう妻の状態をすべて承知の上で、あえて冷静沈着に振る舞う夫を見ていると、裕子は、不安定な自分と、完全に安定している夫の人間的差異を痛感しないではいられなかった。裕子は、苛立ちを感じ始めた。そして、非日常を生きる自分と、日常を生きる子供たちとの差にもこだわるようになった。

ここで思い出すのが、森鴎外とその妻、および子供たちとの関係なのである。鴎外の妻や子供たちは、鴎外があまりにも完璧な夫であり、父親であること、そして、鴎外の生み出した家族関係があまりにも平穏であることに違和を感じはじめる。

鴎外の娘の一人は、学校で神についての授業を受けたときに、反射的に父親の顔を思い出したというほど鴎外は完全な家長だったが、それ故に子供たちは父を困らせるためだけに父に逆らっている。妻も鴎外があまりにも完璧な夫なので、ヒステリーを起こして深夜に庭に飛び出すなどして夫を困惑させている。

一家の長が、聡明で寛大で愛情に溢れた態度で家族に接する場合、妻や子供がこの家長に逆らって家長と自己の間に生まれていた温和な二者関係を壊そうとすることがある。戦前の新聞などを読むと、すぐれた親のもとで愛情豊かに育てられた息子が「不良少年」になったり、娘が身を持ち崩して売笑婦になったりするスキャンダル記事が目につく。これらは、模範的家庭、理想的家族のもつ一面性、不毛性に息苦しさを感じた子供たちが、家長と自己との関係を新しいものに作り変える試みだと見ることが出来るのだ。

ここに、もう一つの事例を追加しておきたい。最近の信濃毎日新聞に、「毎日幸せと思い夫と生きていく」と題する匿名の投書が載っていた。その内容がやはり、幸福な家庭に対する主婦の反撃を綴ったものだった(投書したのは38才の主婦)。

投書は、こんな具合に始まっている。

<夫と結婚して15年、不妊治療をして約10年。夫は優しく穏やかでとてもすてきな人です。そんな夫の子がどうしても欲しくて、つらい治療もどんなことも耐えられました。けれど、授かりませんでした>

この主婦は、不妊治療に失敗したことが原因なのか、幸福な家庭を営んでいながら、会社から帰ってくる夫に、目を泣き腫らして、「早く死にたい」と訴えるようになる。すると、夫は悲しそうな顔をして、「俺がいるじゃないか」と励ましてくれる。

そんな毎日が続くうちに、夫も元気がなくなり、顔から悲しそうな表情が消えないようになった。そうなってから投書者の主婦は、大好きな夫を苦しめている自身に気づくのである。そして、生活を立て直すための誓いを新たにする。

<私にできるのは、夫のために体によいおいしいご飯を作ったり、家をきれいにしたり、当たり前の家事をすることだけです。いつも笑顔でいる、夫婦仲良く過ごす、夫が元気に仕事に励む、そんな単純で当たり前の毎日を幸せと思わなくては…。そう思って今日も頑張って生きています>

 
この主婦も、理想的な夫婦関係の中にあって、その関係を破壊する衝動に駆られている。その夫というのは、裕子の夫永田和宏のように、そしてまた森鴎外のように、やさしくて穏やかな男性だった。

この38才になる主婦は、結婚してから、三段階の心理を体験している。

  第一段階=夫の生き方への迎合期・同調期
  第二段階=夫に対する疑問期・反撃期
  第三段階=夫からの自立期

河野裕子も、鴎外の妻も、投書者と同じ三段階の心理を経て、一応安定した心理状態に到達している。この三人のうちで、第一段階から第二段階に移るときの変化が最も激しかったのは河野裕子だったが、それは彼女が「直球勝負型」の性格だった上に、短歌の世界で夫と競り合う関係にあったからだろう。

裕子は人間としての総合力の点で、夫に及ばないと感じていたけれども、歌人としての才能では自分の方が上だという自負を抱いていたと思われる。だから「迢空賞」を夫が先んじて獲得したことについて釈然としないものを感じていた(永田和宏が獲得した「迢空賞」は38回目のもので、その後、河野裕子は43回目の「迢空賞」を受賞している)。

裕子が夫を罵るときに、「私がこんなになったのは、あんたの責任でしょう。どうしてくれるのよ」と呪文のように繰り返しているところを見ると、このほかにも二人の間には夫婦間の機微に触れるような問題があったかと思われる。だが、とにかく、こうして夫を責め続けることで、裕子は、夫に従属していた自身を解き放ち、夫と対等な場に立つことに成功したのだった。

明け暮れ妻に責められながら、永田和宏は一度だけ、我慢できなくなって切れてしまったことがある。彼は、おいおいと泣きながら、重い椅子を持ち上げてテレビに投げつけ、トイレのドアを蹴破って暴れたのだが、この時以外は、荒れ狂う妻を黙って見守っていた。時には、殴りかかる妻を、しっかり抱き留めていたこともある。河野裕子は有り余る才能を持ちながら、夫である自分の指示を待って行動する「かわいいひと」として生きてきた。その妻が彼に逆らって、内に溜め込んだ毒を吐き出し、夫と対等な関係になろうとしていたのである。

永田和宏は妻の狂態につきあいながら、学ぶところがあったのである。人間の愛は同じ状態に留まっているのではなく、変容に変容を重ねながら、変化し続けるものだということを。

河野裕子は、次のような辞世を遺して、64才で亡くなっている。

  手をのべてあなたとあなたに触れたきに
       息が足りないこの世の息が