「子供たちは森に消えた」(3)
血液型検査の結果は食い違っていたけれども、チカチ一ロの行動には捜査官の疑念をそそるのに十分なものがあった。そこで民警は、チカチ一ロが勤務先の自動車用バッテリーを1個着服していることを突き止めると、彼を起訴した。チカチ一ロを起訴して彼を留置場に収容してしまえば、ソ連警察が得意とする「自白強要」によって彼を追い詰めることが出来ると考えたからだった。
だが、チカチ一ロを自白させることはできなかった。それでも、家宅捜索や職場での聞き取り調査によって、彼の妻子や同僚からチカチ一ロの人となりに関するいくつもの話を聴取することができた。
チカチ一ロはウクライナの集団農場で生まれている。両親や妹と共に住んでいた掘っ立て小屋にはベットがなく、ベットの代わりにする木の台も一つしかなかった。それで家族4人が夜になると、皆その木の台に寝ていた。
チカチ一ロは脳に異常があり、そのため、12歳になるまで排尿をコントロールできなかった。彼と一緒に寝る家族は、チカチ一ロの寝小便癖にどれほど苦労したかしれない。脳の異常は成人してからの彼の性生活にも影響した。彼は勃起する前に射精してしまったり、勃起そのものが不可能だったりした。
彼の母親のアンナは、黙って我慢するタイプの女ではなかった。癇癪持ちで、冷酷で、子供の友達が訪ねてくると、その友達に向かって「さっさと帰って、家の手伝いでもしたらどうか」と怒鳴り散らすような女だった。耐えきれなくなった妹は、14歳になるともう家を出ている。
その妹には幼い頃から腸の一部が肛門から飛び出す「脱腸」の傾向があった。そうなると母親は飛び出した腸を手で元に押し戻した。チカチ一ロは子供の頃からその様子を見ていて、「怖いと思いながら、同時にそれを見ていると血が沸き立つような感じにおそわれた」と語っているという。
チカチ一ロは学校でも職場でも、極度に神経過敏だった。近視だったから眼鏡を掛けなければならなかったのに、恥ずかしくて掛けられず、20歳になってオートバイの免許を取る必要から、やっと眼鏡を掛けるようになった。
劣等感から逃れようと頑張ったおかげで、学校時代の成績は悪くなかった。彼は課外活動でも活躍して、老人援助委員会の委員長になっている。だが、異性関係では振るわず、16歳頃、妹を訪ねてきた10歳前後の少女を床に押し倒して犯そうとした。抵抗する女の子ともみ合っているうちに、チカチ一ロは初めて射精を経験している。
彼はモスクワ大学への入学を希望したが果たせず、学校を出てから職業訓練学校に入って電話の修理工になった。そして炭坑夫の娘と見合い結婚のようにして結婚する。結婚当初、チカチ一口はペニスが勃起せず、なかなか床入りを果たせなかった。しかし、最終的には、妻を相手に初めてのセックスを経験することができた。彼にとってセックスとはごくたまに、苦労しながら行なう儀式のようなものだった。それでも、妻を妊娠させるには充分で、夫婦のあいだに二人の子供が生まれた。
チカチ一ロの娘婿が知る義理の父は、横柄な妻におとなしく従う無口な男だった。義理の息子の目には、チカチーロの家庭は、冷え切っているように見えた。彼は義理の両親がキスしているのを見た記憶は一度もなかった。彼によると、チカチ一口夫婦の間では、つねに妻が主導権を握っていた。彼は、「あの家族は、女たちのほうが力をもっていました。義母が何でも決め、あれこれ義父に指示するんです」と語っている。
チカチ一口の妻は、冷酷だったチカチ一口の母に驚くほど似ていた。娘婿は「義母は義父にしょっちゅうわめいたり、どなったりしていました。何でもないようなことでもそうでしたよ。すると義父は黙って立ち上がって、義母の言う通りにするんです」
結婚の翌年、チカチ一ロはロストフ州立大学の学生になった。職業に就いている彼は、通信制を選び、働きながら学ぶという生活をやり抜いて、極貧の生まれながらインテリゲンチャの仲間入りを果たした。そして彼は職業訓練学校の教師になる。彼の教師生活はがどんなふうだったろうか。
<しかし、チカチ一口は教師の仕事をうまくこなせなかった。「生徒たちをうまく抑えられなかったんです」と、彼は告白した。「私の性格の弱さにつけこんで、一部の生徒は好き勝手なことをしました。私を笑って、アンテナ″と呼ぶんです。授業中に煙草を吸う生徒さえいました。校長の耳にその話が入って、生徒たちをちゃんと抑えていくよう何度も注意されました。やってみたんです。でも、どうしてもだめでした」(「子供たちは森に消えた」)>
生い立ちから教師になるまでの彼の人生を見て行くと、彼が嗜虐的な人間になったもう一つの理由が浮かんでくる。彼がか弱い女子供に振るったナイフは、性器の代用品であると同時に、彼を取り巻く環境に対する復讐の刃だったのである。つまり、彼は意に任せぬ人生に対する報復として、対象が男か女かということに関係なく、相手を思うがままに支配し破滅させたかったのだ。
殺人最盛期(!)の頃の彼は、2週間に一人のペースで殺人を行っていたが、地元の民警からたびたび尋問されたり、留置場に放り込まれたりしたため、犯行の場所を変えるようになった。彼はモスクワに出張する用事があると、そこを足場にして何度か殺人を実行している。キノコ狩りで有名な場所に出かけたときも、そのチャンスを利用して人を殺している。
同じ手口でなされた殺人が各地で行われるようになってから、チカチ一ロへの容疑が疑いないものになった。ロストフで殺人があった時期には、その他の地域で殺人がなされず、モスクワで殺人があるときには、ロストフ地方に殺人がなかったのだ。それに彼が、バッテリー着服の件で、留置場に収監されていた三ヶ月間にも、事件が起きていなかった。
チカチ一ロが犯人だという証拠は一つもなかった。が、民警本部長や主任捜査官は彼の逮捕に踏み切った。彼は12年間に及ぶ連続殺人の果てに、民警当局の一種のヤマカンで逮捕されることになったのである。
(つづく)