テレビを見ながら
このところ、自分自身について面白い発見が続いた。
その一つは、小林秀雄が旧友の河上徹太郎と対話する録音版DVDを聞いていて発見したのである。両名の対話の内容そのものは、酒に酔っぱらいながらの雑談だったから、ここに取り上げるほどのものではなかった。しかし、このDVDをテレビ用のビデオ装置にかけて半分だけ聞いたあとで、残りをBOSEで聞いてみたら新しい発見があったのだ。対話の内容が全部分かったのである。
「対話の内容が全部分かった」などといえば、不審に思う人も多いだろう。が、老齢になると、テレビ・ドラマの会話や録音版DVDの講演内容などが聞き取りにくくなり、テレビドラマの会話など、俳優が少し早口でしゃべったり、低い声で語ったりすると、セリフの半分も聞き取れないようになる。耳が遠くなるから、そうなるのではなく、言葉を発する時の話者の発音にメリハリが欠けているからそうなるらしかった。
小林秀雄・河上徹太郎対談の内容にしても、テレビのビデオ機器で聞いていると、二人が何を言っているか分からない部分がかなりあった。ところが、BOSEで聞いてみると彼らの言っていることが全部はっきりと聞き取れて、何をしゃべっているか明確に分かるのだ。すると、これまで、ドラマを見ていて俳優の言葉が理解できなかったのは、俳優のセリフ回しが下手なのではなくて、ビデオ装置の録音・再現機能の側に問題があったのである。
これは、一つの発見だった。TVドラマを楽しむためには、テレビやビデオ機器のサウンド機能を重視しなければならないのだ。
もう一つの発見は──自分が以前に書いた小説を読んでいるうちに、私自身の性格について悟るところがあったのである。一昔前のパソコンの記録媒体といえば、フロッピー・ディスクとMOだけだったが、私はたくさん溜まっているフロッピー・ディスクの方は処分したものの、MOの方はそのほとんどを残していた。そのMOのなかに、書きかけの長編小説を記録したものがあるのだ。長編小説の一つは、時代小説であり、もう一つはポルノ小説だが、両方とも途中で中断されたままで残っている。
その昔、私はローカル新聞に連載小説を載せていたことがある。
その新聞の編集者が友人で、私が書きあげたばかりの実存主義風の中編小説を読んで面白がり、新聞に載せてやろうと言い出したのだ。だが、病後、教壇に復帰したばかりの私は、ニヒリズムのにおいが濃厚な小説(題名は「無頼」)を発表などしたら県教委に睨まれるだろうと考え、石坂洋次郎とバーナード・ショウをこき混ぜたような学園小説を書くから、掲載するならそれにしてくれと友人に頼みこんだのだった。
その連載小説(今では、題名を思い出すことも出来ない)は、100回近くまで続いたところで中断されている。私の生活環境が激変して、結婚やら、他地区への転勤やらが続き、小説を書いているどころではなくなったからだ。それで、こちらから友人に頭を下げて連載を中止させてもらったのである。
それ以来、長編小説を書き始めては中断するというのが、私の小説作法の特徴になったのであった。
私はパソコンを使うようになってから、「小説作製」を再開した。最初は、いい作品が出来たら、何かの懸賞小説に応募する積もりだったが、何時しか、そうしたことを抜きにして自分自身の楽しみのために、物語を綴るようになった。楽しみで書くのだから、話を長く続かせる必要があった。すると、必然的に小説は長編になり、そして必然的に未完のままで残されることになる。
先日、久しぶりに、MOに記録されている時代小説を読んでみたら、それは山本周五郎の「樅の木は残った」を念頭に置いた作品で、悲劇で終わることが予定されている作品だった。「樅の木は残った」では、最後に主役の男が非業の死を遂げるが、私の作品でも主役の男は無惨な死を遂げるのである。
ところが、読んで行って物語の終盤に近づくと、主役の男は死なないばかりか、幸福な大団円を迎えそうになっている。私は思い出したのである。暇を盗んで、この長編を書いているうちに、自分が主人公と一体化して彼を愛するようになり、彼を死なせることが出来なくなってしまったのだ。そのことで、私は自分が通俗的な人間であることを再確認していたのである。
私は、テレビを見るとき、歌謡曲や民放ドラマを敬遠して、何時でもチャンネルを変えてしまう。それは、自分で自分の通俗性を自覚しているからだった。なかでも、お涙頂戴のホームドラマを特に嫌悪する理由は、自分がそれを視聴していると、「心ならずも」泣きそうになるからなのだ。
自作のポルノ小説の方は、大いに楽しんで読むことが出来た。
戦時下に少年時代を過ごした私たちの世代は、厳重な言論統制下に置かれていたから、ちらりとでもセックスの世界を垣間見ることができなかった。大人たちは、発禁の情痴小説を読んだり、仲間たちだけでブルーフィルムを見ているらしかったが、自分たちはそうしたものに触れる機会はなく、それらを知ることなしに、戦場に引っ張り出されて死んでいくのだろうと諦めていたのである。
だから、中学の四年生にもなって私の仲間の一人が、「おれの兄弟は三人いるから、うちの親父はこれまでに三回オマンコしたんだ」と真面目な顔で言うようになっていたのだ。私はこういう少年時代のことを思い出しながら、二人の仲のいい少年が互いに親友の母親とセックスするまでの紆余曲折を長い物語にしていたのである。
今では、ポルノ小説が世に溢れている。私たちはそうしたものを読んでも、何の刺激も受けないようになっている。だが、この自作のポルノを読んでいたら、自然に四肢に活力が蘇ってきたのだ。自分が少年時代を思い出しながら書いたポルノだからこそ、作品には「回春」の力があったのである。
偶然だろうが、昨日、テレビのチャンネルを回していたら「徹子の部屋」という番組に真野響子が出ていた。なつかしかった。彼女はあの頃の私のお気に入りの女優だったのである。それで、小説のなかに登場する母親の一人を、真野響子を想定した女性にしたのだった。
(つづく)