甘口辛口

稀勢の里の挫折

2013/10/1(火) 午後 5:48
稀勢の里の挫折

大相撲秋場所が終わり、メディアは、「稀勢の里は、またもや期待を破った」と相変わらずの嘆声を漏らしている。相撲協会の役員の中にも、「アレは駄目だよ。もう期待しない方がいい」と言い放つものさえ出てきた。

私はそれほど熱心な相撲ファンではないが、大相撲が始まれば、ほぼ毎日、実況放送の末尾30分ほどをテレビをつけて見ていた。そして、昔は世のファンと同じように「若島津はそのうちに横綱になるだろうし、若の里は間違いなく大関になる」と信じていたのである。だが、その希望的な予想は両方ともはずれてしまった。

稀勢の里は、若島津・若の里と同系統の部屋の力士だから、彼に声援を送っていてもいいはずだったが、そうはならなかった。稀勢の里には申し訳ないけれども、突っかける以前の仕切段階(?)での彼の態度を見苦しいと思っていたからだった。

稀勢の里は、なぜ、仕切の際、相手と同時に手をつかないで、わざと数テンポ遅れて手をついたりするのだろうか。相手力士のペースを狂わすためらしいのだ。彼はその他にも勝負以前に、妙な所作を示して、相手を惑乱させようとする。そんな姑息な手を使う力士は上位には少ないから、彼の態度はマイナスの意味合いで観客の注目を集めていた。

稀勢の里は日本人横綱の出現を待ちわびているファンの期待を一身に集め、そのため「過緊張」の状態で土俵にあがっている点は理解できる。が、彼はプロなのである。相手のペースを乱すために小細工を弄するようなことは慎むべきだし、平静を装うために土俵上で傲慢不遜な表情を見せたりするようなことも避けるべきではなかろうか。

・・・・その稀勢の里が、「いつも頭にあるのは、負けたときの自分の相撲のことばかりだ」という意味のことを語っていると知って、私は彼に関する認識を改めなければならないと思った。

人間には、過去を振り返ってマイナスの記憶ばかりを思い起こす人物もあれば、プラスの記憶をより多く思い出すものもある。「振り向けば、鬼千疋」と実感している人物もあれば、「振り向けば、花の園」と過去に満足し、前途に光明の世界を予感しているものもいる。前者にとっては、現世は地獄だが、後者にとっては、現世は自分を迎え入れてくれる未踏の処女地と感じられる。

稀勢の里が「振り向けば鬼千疋」型の人間で、対人恐怖症の傾向があるとしたら、仕切るときに数テンポを遅らせたりするのは、相手をたぶらかす小細工などではなくて、他者を敵と感じて直ぐには手が出ないからに違いない。対戦相手を共に業界を盛り上げる「友」としてではなく「敵」と感じるタイプだとしたら、その者は相手に調子を合わせることを考える前に、猛稽古を積んで相手を叩きつぶしにかかるのだ。

まあ、それはそれでいいのだが、本場所という修羅場に臨むと困ったことが起きる。

相手も必死になって、いろいろな戦法で攻めてくるから、これに対応するには自分の側でも融通自在の戦法が必要になる。双葉山や大鵬、そして白鵬が優れているのは、対戦相手の攻めを受け止めてから反攻に転じるときの手法が、多彩を極めていることなのだ。この臨機応変の多面性は、「振り向けば花の園」という人生を歩んできたものが身につけているもので、「いつも頭にあるのは、負けたときの自分の相撲のことばかりだ」という自虐型・視野狭窄型の人間にはなかなか手の届かないものなのだ。

だが、絶望する必要はない。不器用だった「おしん横綱」=隆の里も、こつこつ努力して最後には横綱になったのである。いや、無理して横綱になる必要はないのだ。頭の中にある負けたときの記憶をすっかり洗い流して、勝敗を度外視して、おおらかな気持ちで土俵に登れるようになれば、それで十分なのである。