人生の諸段階
前回のブログを、私は次のようにまとめている。
「(稀勢の里は)無理して横綱になる必要はない。頭の中にある負けたときの記憶をすっかり洗い流し、勝敗を度外視して、おおらかな気持ちで土俵に登れるようになれば、それで十分なのだ」
しかし、頭の中に住み着いている鬼(トラウマ)を簡単に洗い流してしまえるようなら、人間、苦労をしないのである、鬼は消えないばかりか、日々増殖しているのだから。
.
以前に神谷美恵子について書いたことがあった。今度、それを読み返してみたら、聖女といわれた彼女も「振り向けば鬼千疋」型の人間で、内なる鬼と手を切るのに生涯苦労していたことが見て取れた。神谷には、「遍歴」というすぐれた著書があるが、彼女の夫だった神谷伸郎はその「後書き」に次のようなことを記している。
<彼女(神谷美恵子)は「自伝」を書き始めたものの、間もなく「自己嫌悪」に陥り、執筆を途中で中断してしまった。美恵子は、一旦出版社に送った原稿を取り戻したこともある>
神谷自身も、手記の中でこう書いている。
<何日も何日も悲しみと絶望にうちひしがれ、前途はどこまで行っても真っ暗な袋小路としかみえず、発狂か自殺か、この二つしか私の行きつく道はないと思いつづけていた>
彼女の著書「遍歴」には、誰の目にもハッキリ分かるドラマ仕立ての筋立てがある。
青春の入り口19才で、ライ療養所多摩全生園を訪れた神谷は、将来、ライ患者のために献身しようと誓いを立てた。けれども、多くの障害に阻まれて、その希望を実現できないでいた。だが、ついに43才で初志を貫徹して長島愛生園の勤務医として働くことになるというストーリーである。だから、これは一種のサクセス・ストーリーとして構想されていると解釈することも出来るのだ。
その一方で、別の見方もある。
子供の頃から他者に縛られることを嫌っていた神谷は、われとわが手で自分に「縛り」をかけて生きることを選んだ。偏狭な無教会派キリスト教を信じたのも、ライ患者への献身という生涯を選んだのも、彼女が自分に課した「縛り」に基づくものだった。
しかし、美恵子の後半生は、自らに課した「縛り」を徐々に解いていく過程に他ならなかった。彼女は思想的には無教会派キリスト教のリゴリズムを棄て、クエーカー教に接近し、さらに仏教に関心を示すようになっている。
16年間の愛生園での生活から離れ、自分に課した「縛り」から解き放たれた美恵子は、初めて心の安らぎを得たのだ。彼女は書いている。
「すぎこしかたをかえりみるとずいぶん無茶をしたものだと思う。今はしずかな余生を与えられていてありがたい」
彼女の一生は、この静かな終着点を目指したものであり、隠棲の日常こそが本当のゴールだったと思われる。
「振り向けば鬼千疋」型の人間だった神谷は、「しずかな余生」に到達して初めて、鬼たちと手を切ることに成功したのだった。
私は「遍歴」を読了後に、神谷に関する二冊の評伝を読んだ。二冊とも、「多くの障害を乗り越えてライ医になるという初志を貫徹した聖なる美恵子」というテーマで全編が構成されていた。これらを読めば、「遍歴」を書きながら、美恵子がなぜ自己嫌悪に襲われたのか、その理由が理解できるのである。
ベストセラーになった「生きがいについて」「人間を見つめて」で世の注目を集めてから、美恵子は自分を聖女扱いする目に囲まれて生きることになった。神谷の声価を高からしめたのは、自著に採録された「ライのひとに」という自作の詩であった。
なぜ私たちでなくてあなたが?
あなたは代って下さったのだ
代って人としてあらゆるものを奪われ
地獄の責苦を悩みぬいて下さったのだ
これはアフリカの原生林に出かけた時のシュバイッツアーの感想に似ている。「なぜ私たちでなくてあなたが?」という一節は、神谷恵美子について論じるときに必ず引用される有名なフレーズになっている。
神谷は、「こころの旅」という著書の中に、「人生の諸段階」という一節をもうけて人間の一生についてのさまざまな段階理論を紹介している。だが、私はそれらの段階論よりも、鶴見和子の「人生三段階論」のほうが、神谷の生涯を説明するのに最適ではないかと思うのだ。鶴見の三段階はこうなっている。
1、他律期
2、自律期
3、無律期
とにかく自律期における神谷の勉励ぶりは凄まじかったのである。彼女は自身の知識欲や向上心をわが身をさいなむ「悪鬼」と呼んでいる。悪鬼のように自分を駆り立て苛む向上心・知識欲を捨て、自分への縛りを完全に解き放ったときに、彼女は初めて求めていた世界に出ることに成功したのであった。
──稀勢の里が救われる道も、勝つために猛稽古するのを止めて、力士として無律期に入った時に現れると思われる。勝負師として生きていながら、勝敗を度外視して土俵に上がることはきわめて困難かもしれない。けれども、「振り向けば鬼千疋」の世界から抜け出すにはそれしか道はないのである。