朝日新聞が「心」の連載を始める(4)
(註:「私」を奥さんの養子にして両者を接近させるという筋立てを考案してブログに書き込んだのは5,6年前のことで、これは「続編」の二番目のプラン、つまり第二案ということになる。この第二案では、「続編」を悲劇で終わらせるというハッキリした方針のもとに、その梗概(あらすじ)を以下のように綴っている)
・・・・・「私」が、奥さんとKとの関係を疑い始めたのは、「私」に対する奥さんの気持ちが読めなくなったからだった。
「私」は、物置にKの遺品があることを知っていた。柳行李の中に納められた遺品は、古びたマントの他に、ノートが10冊ほどと、ヒモで束ねた4、5冊の書物があるだけだった。ノートを自室に持ち帰って読んでみる。すべて大学で受けた講義を筆記したもので、個人の感想を記したものは皆無だった。
次にKの蔵書を束のまま部屋に持ってきて調べた。
日本語で書かれているのは新旧の福音書だけで、残りはすべて英文の本だった。シヨペンハウエル、バカバッド・ギーター、などと一緒に、ゲーテの「若きウエルテルの悩み」「ファウスト」が混じっているのが、奇異に感じられた。
本のどこかに何か書き込みがあるのではないかと思って、一冊ずつページをめくって調べてみたが、書き込みはおろか傍線を引っ張ったところもない。すべての本がよく読み込まれているという印象があるのに、書き込みその他が一切ないのだ。これは、Kという青年の潔癖な性格を現しているように思われた。
最後にゲーテの「ファウスト」を調べる。本の半ばまで点検しても、書き込みがないので本を閉じようとしたら、そのページの余白に英文が一行書かれていた。訳してみると、こうなる。
<放っておけば死ぬことが確実なのに、わざわざ自殺をくわだてるとは、人間はよくよく愚かに出来ている>
”suicide”という言葉が、ぱっと目に飛び込んできたから、次のページをめくってみると、本の余白に英文がぎっしり書き込んであった。「ファウスト」は長編の詩集だから各ページの上下に余白がたくさんあり、そこにKは鉛筆で自分の気持ちを書き込んでいたのだ。
「私」が本の最後のページを開くと、Kはそこから手記を書き始め、本のページを逆順に埋めていったことが分かった。その書き出しの部分は次のようになっていた。
<庭に盥を持ち出して、シャツを洗濯していたら彼女が出てきた。そして、「洗濯物があったら、洗ってあげるとあれほど言っているのに、独りで隠れてこんなことをしているなんて、あなたは何という頑固者だろう」という。
私は彼女の言葉を聞き流して、シャツを物干し竿に吊して自室に戻った。すると、彼女は逃がしてなるものかとばかり、私の後に付いて来て、部屋の中に座り込んでしまった。私は彼女を放っておいて、読みかけの本を開いた。だが、目は活字の上を空転するだけで、何も頭に入らない。
私はS(「S」=先生)に連れられて、初めてこの家に移ってきたときから、彼女に惹かれていた。私はこれまでに彼女のように品のいい、匂やかなお嬢さんを見たことがなかったのだ。だからこそ私は、彼女に無関心を装わなければならなかったともいえる。
「いい加減にして、ここを出て行ってくれませんか」
「いいえ、ダメよ。あなたは、私と仲良くならなければいけないの」
「誰が、そんなことを決めたんですか」
「Sさんよ。あなたはとても秀才なんですってね。あまり頭がよすぎて、あなたは浮世離れしているから、私のようなバカとつきあう必要があるとSさんはいうのよ」
彼女がSに言われて私と親しくなろうとしているとしたら、私は彼女の意志に従うしかあるまい。私がこの世でたった一人信頼できるのは、Sだけなのだから。
彼女は、その後、私の部屋にしげしげとやってくるようになった。隣室のSはキチンと大学に通っているけれども、私はあまり登校しなかったから、私が独りで家に残っているときにやってくるのだ。彼女の目的は、明らかだった。Sのことを詳しく知りたいからだった。Sを愛していた彼女は、私の口からSに関する思い出話をくわしく聞きたいのである。
Sのことを話題にしていれば、私の身の上にも触れざるを得なかった。彼女は次第に私の過去にも興味を示し始め、私が養家を離縁された事情から故郷からの送金を断たれた私がどうやって学業を続けたかという裏話にいたるまで根掘り葉掘り尋ねるようになった。
こう書くと、私が話し手で彼女が聞き役のように聞こえるかも知れない。だが、実際はその逆だった。私はお喋りをしにやってくる彼女の話を聞き、時々、相手に助言や忠告を与えていただけだったのだ。だから、彼女にとって私は信頼できる相談相手であり、兄のように気の置けない存在だったのである。
彼女の最大関心事は、Sが彼女を愛してくれているかどうか、ということだった。Sが彼女に好意を持っていることは疑いなかったが、彼が異性としての彼女を愛しているかどうかという点になると私は断定できないでいた。それで私が、「自分が代わってSに直接聞いてみようか」と提案すると、そのたびに彼女は首を横に振るのだ。彼女はひどく臆病になっていて、Sから拒否の言葉を聞かされることを恐れているのだった。
迷いに迷った末に、彼女は、ある日、私に意外なことを頼んだ。私が彼女を愛しているとSに告白すれば、Sも自分の気持ちを打ち明けるのではないか、もしかすると、それが呼び水になって、Sは彼女に求愛する気になるかも知れない、というのである。
虫のいい依頼だが、別に腹は立たなかった。私の前では彼女が子供のように率直になって夢や希望を語り、私に虫のいい要求をするかと思えば、打ってかわって私に細やかな思いやりを示していたからだった。私もそうだったが、彼女にとっても異性とこんなにうちとけた関係になったのは初めてのことではなかったろうか。
私が「Sが断ったらどうする?」と質問すると、彼女は微笑して、どきっとするような言葉を返してよこした――「あなたに乗り換えることにするわ」。
「そんなことを言ってはいけないよ、Sと私の両方を侮辱すことになるから」
「でも、私はSさんも好きだし、あなたも好きなんだから仕方がないでしょう」
ケロッとした顔で、そんなことを言う彼女を、私は少し驚かしてやろうと思った。
「もしSがあなたを愛しているが、私のためにあなたを譲るといい出したらどうする? 彼は友情に篤い男だから、私のために身を引いてしまうかも知れないよ。それでも、いいのかい?」
彼女は挑むような目で私を見つめ、「いいわ」と答えた。そして、私の心臓を剣で刺し通すような言葉を口にした。
「Sさんが私を好きなのかどうか分からないの。でも、あなたが私を好いていてくれることは、ちゃんと分かっているもの」>
・・・・・Kが奥さんとの関係で悩み始めたのは、それからだった。彼は確かに彼女を愛していたが、それ以上にSとの関係を大事にしていた。それに、手記を読んでみると、彼は一年以上前から、ひそかに自殺する計画を立てていたのである。
Kは「お嬢さん」の依頼を一時保留にして、自殺するまでの約半年を懊悩に懊悩を重ねている。彼は「お嬢さん」を巡って行きつ戻りつする心境を、手記の中に事細かに書き綴っている。ゲーテの「若きウエルテル」を読んだのも、恋に悩むウエルテルに自分の姿を重ねて見ていたからだった。
(つづく)