甘口辛口

朝日新聞が「心」の連載を始める(5)

2014/4/24(木) 午前 11:00
朝日新聞が「心」の連載を始める(5)

(承前)
・・・・・・・・Kは奥さんにせがまれて、半年後、Sに向かって奥さんを愛していることを告白する。これが奥さんに頼まれた直後のことだったら、彼の告白は狙い通りの結果をもたらしたかもしれない。S(=「先生」)は、「君だけではない、自分も奥さんを愛している」とKに告げるか、直接奥さんに求愛するかしただろう。

だが、半年悩み抜いた後の告白だったから、Kの言葉にも態度にも異様な迫力があった。「先生」はその迫力に押されて恐慌状態に陥り、Kを面罵し、その後で奥さんを通り越してその母親に娘さんを貰いたいと申し込んでしまったのだ。

奥さんの母親は、「先生」の申し出をよろこんで受け入れた。こうした成り行きは、奥さんにとっても、Kにとっても、歓迎すべきことだった筈であった。Kは手記のなかに、これで思い残すことはない、満足して死んで行けると書いている。そして、最後に、<放っておけば死ぬことが確実なのに、わざわざ自殺をくわだてるとは、人間はよくよく愚かに出来ている>と書き込み、死後に公表されるであろう「先生」宛の遺書を別に書いて自殺したのである。

――「私」は、Kの手記を読み終わって、呆然とした。

一番、気の毒だったのは、Kの告白が奥さんの発案の基づくペテンだったことを知らずに後追い自殺をした「先生」だった。ある意味で、Kと「先生」は奥さんに手玉に取られ、共倒れの形で死んでいったのだ。

奥さんは「私」に向かって、「先生」の遺書の内容を教えろと迫った。そして、「先生」が妻である自分に遺書を残さないで、「私」に宛てて遺書を残したのは、あまりにもひどい仕打ちだと恨み節を繰り返した。

そしてKが自分を愛していたことなど知らないし、「先生」が自殺した原因など見当もつかないと強調していたのだ。奥さんは、「先生」をペテンにかけただけでなく、「私」をもだましていたのだった。

Kに頼んで「先生」への告白をさせた奥さんは、「先生」が突如自分を飛び越して母親に「娘さんをくれ」と要求する行動に出たのも、自分がそうさせたのだと自覚していたし、「先生」の結婚が内定した後でKが自殺したことについても、Kは自分に失恋したために死んだと考えていたかもしれなかった。にもかかわらず、奥さんは口をぬぐって、「先生」がKの命日に墓参りする理由も分からないし、「先生」が罪ある人間のように寂しい人生を送った理由も分からないと強調している。

「私」は、Kの手記を読んで以来、日毎に高まる奥さんへの不信の念を表情には出さないように気をつけていた。だが、一緒に暮らしている奥さんを何時までも騙すことは不可能だった。

「この頃、あなたは変ね。何か面白くないことでもあるの?」

奥さんは、勤め先に不満があるので「私」が暗い顔をしているのだと考えたらしく、職場が厭になったら勤めを辞めてもいい、あなたが働かなくても食べていけるだけの蓄えを「先生」が残しておいてくれたから、とまで言うようになった。だが、そのうちに奥さんは「私」の不信の目が彼女自身に向けられていることに気づくようになった。

庭にぼんやり立っている「私」に、奥さんが縁側から声をかけたのである。奥さんは振り返った「私」の顔をみてハッとしたのだ。そこには奥さんに対する厭悪の表情がありありと描き出されていたからだ。その夜、夕食後に奥さんは膝詰め談判で「私」に詰め寄ってきた。

「私に何か足らないことがあったら言って頂戴。これでも私はあなたのために一生懸命つとめている積もりよ」
「奥さんに、不満はないですよ」
「では、なんなのよ、私を見たときのあなたのあの嫌らしい顔つきは」

「私」は、この際Kの手記を持ち出して、一切を明らかに出した方がいいと思った。それで、自室から「ファウスト」を持ち出して、書き込みのあるページを奥さんに示した。

「奥さんは、前にKさんに愛されていたとは知らなかったといっていた。これはKさんが書き残した手記ですよ。彼は奥さんを愛していたし、そのことは奥さんも知っていたとハッキリ書いている」
「それは・・・・」と奥さんは、はじめて動揺の色をみせた。
「奥さんは、kさんに向かって『私はS(先生)と同じくらいあなたを愛している』と明言したんじゃないですか」

「先生」と同じくらいKを愛していたのではないかと追求された奥さんは、やがて弱々しい微笑を浮かべた。

「母も私も、ずっと不安な気持ちで生きていたの。女二人だけの暮らしで、収入といえば僅かな軍人恩給しかない。だから、私たちは無意識に女二人を安心させてくれる男性を求めていたの。そんな私たちには、『先生』が頼りがいのある人に見えたのよ。でも、叔父さんに裏切られた主人は警戒心が強かったから、私たちが策略で自分を取り込もう、婿にしようと狙っていると疑っていたのよ・・・・」

「先生」の遺書には、確かにそんな風なことを書いた箇所もあった。「先生」の猜疑心はまず奥さんの母親に向けられ、やがてそれが奥さんにも向けられたのだった。「先生」は、奥さんも又その母親のような策略家ではないか
と疑っていたが、「先生」の疑っていたように奥さんは策略家だったのである。

結婚前の奥さんは、「先生」を愛しながらも、相手の動揺しがちな性格に不安を抱き続けていた。それに比べると、Kの態度は明快だった。彼は奥さんに好意を持ち、奥さんのために自分の出来ることは何でもする気でいた。そんなKが、奥さんには実の兄のように頼もしく見えたのだった。

奥さんは、言葉を続ける――「あの頃の私は、子供みたいだったのよ。私は、Kさんに頼めば、私のために何でもしてくれると思っていたし、Kさんが告白すれば、主人は私の思うように動いてくれると信じ込んでいた。ねんねえ娘の浅はかな計画が、悲劇を引き起こしてしまったの」

奥さんの話を聞いているうちに、「先生」を気の毒に思う「私」の気持ちはますます強くなった。「先生」は誤解していたのである。Kは確かに奥さんを愛していた、だが、心の底で自死を考えていた彼は、奥さんを自分のものにする気など毛頭なかった。彼はこの世での唯一の友である「先生」が、奥さんと結ばれることを心から望んで死んでいったのだ。

だが、「先生」は最後までKの告白が、「ねんねえ娘の浅はかなたくらみ」に発するものであることに気づかなかった。そのため、Kの自殺後の20年余を苦しみ抜き、挙げ句の果てに自殺してしまったのだ。腕を組んで黙り込んでしまった「私」を心配そうに眺めて、奥さんがためらいがちに声をかけた。

「私みたいな女が、イヤになったでしょう?」
「いえ」
「でも、昼間、庭で私の方を振り返ったときのあなたの顔ったらなかったわ。私を、さも厭わしげに・・・・二度と見たくないというような目で・・・・」
「奥さんは、今でも『先生』が何も打ち明けずに死んだことや、思わせぶりな言い方ばかりしていたことを恨んでいる。でもね、一番苦しんでいたのも、一番かわいそうなのも『先生』だったんですよ。『先生』のことを考えると、僕は・・・・」

奥さんは、下を向いて何かを耐えるように長い睫をふるわせていたが、やがて静かに顔を上げた。

「あなたもKさんと同じね。結局、私なんかより主人のことを大事に想っているんだわ。私はね、あなたが主人のところにやってきて話をするのを見て、あなたがKさんによく似ていると思ったの。あなたもKさんと同じように一本気で、男らしくて、主人の言い方を借りると剛気な気質なのよ。だから、かえって主人のように女性的なところがある男性に惹かれるのよ」

(つづく)