甘口辛口

三島全集を拾い読み(2)

2014/6/30(月) 午後 5:37
三島全集を拾い読み(2)

最初は、「豊饒の海」四部作のどれか一つを読むつもりだった。だが、この四部作が「生まれ替わり物語」だと聞いていたことを思い出したら、意気阻喪して四部作のどの一つも読む気がしなくなった。愚老はこれでも合理主義者なのである。そこで、方針を変えてあまり長くなくて、こちらの好奇心をそそる短篇・中編小説だけを拾い読みすることにした。そして、先日までに読了したのが、次の三作品だった。

  憂国
  美しい星
  音楽

愚老は、三島由紀夫が愛国者だったとは信じていない。だが、彼が何について憂いているのか、その点だけを承知しておきたいと思って、手始めに、まず、「憂国」を読んでみたのだ。

読み終わって、茫然とした。

こちらが期待していた三島の憂いについては何も書かれていなかったのである。二・二六事件に参加できなかった武山陸軍中尉が妻麗子と共に心中する委細が書いてあるだけだったのだ。同志たちは、彼が新婚だったことを考慮して、彼を除外して決起したため、事件後、中尉は同志たちを逆賊として討伐しなければならぬ立場になった、それで彼は自害を決意し、その夫に殉じるかたちで妻も後追い自殺することになったのだ。

三島は、この作品を著すに当たって、実在の青島中尉をモデルにしたといわれる(青島中尉は遅れて決起に参加できなかったために事件後に割腹自殺している)。だが、三島は武山中尉と妻麗子の死を描くに当たって、両者を絶世の美男美女にしているだけでなく、夫婦が心中する場面も、これ以上はないほどに美化して描いている。この結果、夫婦の心中は悲劇的な印象を与えるかわりに、歌舞伎の陰惨な場面を見ているような感じを読者に与えることになった。

作者は「憂国」を書くだけで満足しなかった。「憂国」の内容をシナリオにしたり、更にこれを原作にした映画を作ったり、三島自身カメラの前に出て切腹の演技をしたりしている。つまり「憂国」に関する一連の作品は、国を憂いる思想や心情を世に周知させるために生み出されたものではなかった。三島が三島個人のために、将来割腹する場合に備えて文章と映像でリハーサルを行うためのものだったのである。

この時期の三島は、対談や座談会の機会を捉えて、自らの自殺をしきりに予告している。「憂国」関連の文章や映像も、近い将来、自身が実行する自死を事前にPRするための「予告編」でもあったのである。

読者の予想を裏切るという点では、「美しい星」もその範疇にはいるだろう。この作品は、三島の手になるSFだというので世の注目を集め、この作品の中で交わされる論争を「カラマーゾフ兄弟」の大審問官の場面を思わせると激賞する批評家まで現れた。だが、これは「憂国」と同じように彼が行おうとしている争乱の予告編だと見ることが出来るのだ。

この作品には、二派の宇宙人が登場する。埼玉県に居住するグループは大杉家の家族四人からなり、仙台在住のグループは大学助教授の羽黒を中心にした数人のメンバーから成立している。両派のメンバーは、それぞれ個別に「空飛ぶ円盤」を見ている。彼らは、「空飛ぶ円盤」を見ているうちに、自分が宇宙人であることを悟り、自身の住んでいた星のことまで思い出した面々なのである。

埼玉グループの大杉家の家族でいえば、父は火星から来た「火星人」であり、母は「木星人」、息子は「水星人」、娘は「金星人」だった。大杉一家は父の指導下に、地球に平和をもたらそうとして、「宇宙友朋会(UFO)」を結成する。そして各地で「世界平和講演会」を開き、平和思想を普及させるために奮闘している。
これに対して仙台グループは、宇宙のためには地球人を全滅させる必要があると考えている。相反する信条を持つ両派は、討論会を開くのだが、ここではしなくも明らかになるのは三島が仙台グループに肩入れしていることだったのである。

三島がSFを書くとしたら、宇宙人が人間の身体に宿ったとされているのだから、両者の間に葛藤が起きるはずであり、そこに焦点を置いて物語を展開すべきだったのだ。

三島が、埼玉グループの母星を太陽周辺の惑星にしたのもまずかった。なぜなら、調査の結果、それらの惑星に生物が存在しないことは、ほぼ確実になっているからだ。にもかかわらず、三島は敢えて埼玉グループと仙台グループの対立という構図を作品の柱にしている。それは、三島の頭に一点潜んでいる地球人抹殺という願望を仙台グループの主張を通じて作品の中に書き込むためだったのである。

デビュー以来、三島が明らかにしてきたのは市民的幸福に対する軽侮だった。前回に紹介した「日曜日」にしても、日曜日に何をするか恋人二人に知恵を絞って一年間の計画を立てさせておいて、一瞬の事故でそれらの計画をすべて無意味にしてしまっている。三島は現実の総体に厭悪の目を注ぎ、その現実への悪意をスパイスにして作品に味付けをしている。三島作品に登場する主役たちは、目標を達した瞬間に、思わぬ不幸に見舞われることになっている。この意地の悪いどんでん返しを繰り返すところに、三島が抱いていた現世への深い違和感が現れている。

かくて三島には、二つの選択肢が残されることになった。腹を切って自殺するか、動乱を起こして世の中をひっくり返すかという選択である。換言すれば、自分を殺すか、社会を殺すか、という二つに一つの選択である。

三島は自衛隊を率いて国会を占拠し、戦後日本の秩序を根底から覆す挙に出た。彼も完全に狂っていたわけでないから、国会を占拠するところまでは何とかいくかもしれないが、結局は西郷隆盛のように追いつめられて自裁することになると予想していたに違いない。それも望むところだと悲しげに唇を歪めて、三島は児戯に類するような「決起」へと乗り出したのだった。

しかし、「美しい星」を読んで、意外に思ったことがある。それは埼玉グループが、念願通り、彼らを迎えに来た人工衛星に乗って地球外へ脱出するのに成功していることだった。三島は、ここでは意地の悪いどんでん返しをすることを慎んでいる。

どんでん返しのなかった点は、「音楽」の場合も同じだった。この作品は、不感症の女性を精神分析医が治療するという筋になっている。確か「沈める滝」という作品では不感症が治った途端に女が恋人から捨てられるという筋立てになっていたが、「音楽」の方は不感症の治療に成功して、女性も満足、相手の男も満足ということで終わっている。三島も読者へのサービス精神を心がけるようになったのだろうか。

三島ファンには申し訳ないけれども、今回、三島の全集を拾い読みして、改めて彼の幼児性の根強さを痛感した。三島は老人の悪知恵とともに、幼児の自己中心性を併せ持った人間だったようである。