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三島由紀夫が見合いをした女性

2014/7/16(水) 午後 6:18
三島由紀夫が見合いをした女性

新聞に掲載されていた「週刊新潮」の広告を見ていたら、「三島由紀夫が見合いをした相手に関する真相」という記事を載せているというので、早速、コンビニに出かけて問題の週刊誌を買ってきた。

読んでみたら、この記事はノンフィクション作家工藤美代子が同誌に連載している「皇后美智子さま秘録」の一部なのであった。それによると三島由紀夫が美智子皇后と見合いしたというのは、三島自身の流した噂話であって、確たる事実のない流説だというのだった。

三島は「楯の会」の会合で隊員から美智子妃(当時の彼女は皇太子妃だった)と見合いをしたかどうか質問されたとき、こう答えていたという。

「正式の見合いではない。歌舞伎座で偶然隣り合わせになるという形のものだった」

毎日新聞の記者徳岡孝夫には、もっと詳しい話をして相手を驚かせている。三島は正田美智子と歌舞伎座で見合いをした後で、食堂で一緒に食事をしたというのである。

銀座の割烹「井上」の女将だった女性は、生前、「三島さんと美智子さまはウチの二階でお見合いしたんだよ」と語っていたという。三島が美智子皇后と見合いをしたという話は、三島及びその周辺から流れて来はするが、その他の事情通に確かめてみると、いずれもこの事実を強く否定しているそうだから、この話はあまり信用できないというのが本当のところではなかろうか。

愚老がこの話を知ったのは、ニューヨークタイムズ支局長のヘンリー・スコット・ストークスの著書「三島由紀夫 死と真実」を読んだからだ。この本の訳者は毎日新聞記者徳岡孝夫だから、著者はおそらく徳岡から三島の見合い話を聞き、その話を二番煎じの形でいて著書の中に書きこんだものと思われる。参考までに、同書から関連する部分を以下に引用してみよう。

その頃、三島もその母も、結婚には消極的だったが、医者の誤診で母は癌で余命三ヶ月と宣告されたために結婚を急ぐことになり、慌ただしく見合いをすることになったらしい。

<三島には急に結婚を急がなければならない事情が生じた。意中の相手があっての決断ではなかったので、おのずから見合いということになる。
 最初に見合いをした何人かの相手の中には、のちに皇太子妃になる有名な製粉会社の社長令嬢・正田美智子がいた。縁談が成立しない場合に双方とも傷がつかないよう、歌舞伎座でそれとなく会ったそうだが、三島の要求する花嫁の条件が過大だったせいか、この縁談は成らなかった>

著者は婉曲な言い回しをしているけれども、この言い方だと見合いを断ったのは三島の方からだったということになる。美智子皇后が三島の求める条件を充たしていなかったから破談に終わったのが事実だとすれば、当然、三島の側が美智子皇后を拒否したということになるのだ。

・・・・・愚老がいろいろ考えてみるに、事実はこうだったのではなかろうか。

当時、皇后が卒業した聖心女子大には、各方面から優秀な卒業生を推薦して欲しいという要望が寄せられていた。そういうときに、大学側が推薦順位の筆頭に名前を挙げるのは、きまって正田美智子だったという。どんな国際会議に日本女性代表として送り出しても、正田美智子なら他国代表と比較しても遜色がないからだった。

三島家でも、急いで見合い相手を探さなければならなくなったとき、聖心女子大に適当な候補者を推薦してほしいと依頼したのである。そしたら、その筆頭に正田美智子の名前が記載された一覧表が届けられてきたけれども、三島は相手女性の特徴やら実家の家柄などを勘案して、第一位女性と見合いをすることを思い止まったのである。

暫くすると、皇太子と正田家令嬢の婚約が決まり、三島もその婚約記者会見をテレビで見ることになる。(ああ、自分が見合いをしたかもしれない女性、その女性が皇太子妃になるのか)と思い、それから自己愛の強い彼は、その女性と見合いをして断ったのは自分だというストーリーを自然に作りあげたのではなかろうか。

少なくとも三島は徳岡孝夫には、そう受けとれる打ち明け話をして相手を驚かし、それを伝え聞いたヘンリー・スコット、ストークスは、遠回しな言い方ではあるけれど、三島が相手を振ったという文章を書き上げたのだ。

三島が多くの女性と見合いをしていた頃、皇后は現天皇と「テニスコートの恋」を進行させつつあったのだから、皇后はいかに三島から懇請されたとしても見合いの席に臨むようなことはなかったのである。