甘口辛口

人物鑑賞(熊谷守一の巻)

2014/7/20(日) 午後 8:49

先月の初旬、NHKの「日曜美術館」という番組は、またもや熊谷守一を取り上げていた。

愚老が日曜美術館を毎回見るようになったのは、それほど昔のことではなく、せいぜい3,40年の過去にさかのぼるだけだ.。が、その間に熊谷守一を取り上げた日曜美術館を3回見ている。NHKが、同一の画家をこれほど頻繁に取り上げる事例は、ほかにないように思われるのだが、それは熊谷の作品が群を抜いて優れているからというよりは、「現代の仙人」と称される彼の生き方に多くの視聴者が魅力を感じているからだろう。

いうならば、熊谷守一はその作品よりも、その脱俗の生き方によって多くのファンに愛されている画家なのである。

熊谷の生い立ちについては、以前に愚老が自身のホームページで紹介した文章があるので、その一部をここに引用しようと思う(https://amidado.jpn.org/kaze/home/silent.html)。

<彼は岐阜県恵那郡付知村に生まれた。男女併せて7人兄姉の末子で、父は事業家として成功し、岐阜市の市長になっている。後には衆議院議員になっているから、村で一番の出世頭だった。父は妻子を村に残して、岐阜市内に一戸を構えていたが、守一が3歳になると、子供たちのうちで彼だけを岐阜に呼び寄せた。

この岐阜の家が、何ともデタラメな家だった。旅館を買い取って自宅にした馬鹿でかい家に二人の妾とそのみよりの者が寄り集まって暮らしており、妾のうちの威勢のいい方が自分を「おかあさん」と呼ばせて家を取り仕切っていた。父は事業やら政治やらで忙しく、ほとんど家に居着かず、家事の一切をこの「おかあさん」に任せきりにしていた。熊谷守一もこの女を「おかあさん」と呼ばなければならなかった。

金はいくらでもあったから、守一とたくさんの異母兄弟には、それぞれに乳母がつき、学齢に達すると家庭教師がついた。子供たちのなかでは、ただ一人正妻の子である守一は、一応別格に扱われていた。彼は90畳もある二階の大広間を一人で占領し、食事時になると女中が運んで来る膳に向かって一人で食事をしていた>

熊谷守一は、別格の存在として高みから妾たちとその一族郎党が織りなす混成家族を眺める立場にあった。そうしているうちに守一は、幼いながらに人間というものにすっかり絶望してしまう。二人の妾も、これに仕える使用人たちも、寄ると触ると互いを中傷し合い非難し合ってとどまることを知らないのである。

学校に行けば、校長が市長の息子である熊谷守一を特別扱いする。騎馬戦の折など、一方の旗頭だった守一の旗が取られそうになると、校長は終了の笛を吹くのだ。だから彼は、教師が偉くなれ、偉くなれと生徒を励ますたびに、皆が偉くなってしまったらどうするんだと内心で冷笑するようになっていた。

歴史の時間に、楠木正成や児島高徳ら忠臣の話を聞かされると、「ははん、天皇を崇拝させるために、これまで無名だった彼らを担ぎ出すことにしたのだな」と権力者側の意図を推察する。これが、まだ小学生の眼力だったのである。

世の大人たちが利己的で信用できないとしたら、彼らの教訓や指導に従う必要はない。自分は、誰に遠慮することなく、好きなように生きていいのだ。守一は、誰も注意する者がないのをいいことに、柿がうまいということになれば、朝・昼・晩三食とも柿だけを食べて一週間を過ごすような日々を送ることになる。

熊谷は絵を描くことが好きだったので東京の美術学校に入る。そして画家としての才能は同窓の青木繁を超えるといわれ、学校を首席で卒業しながら、周囲の期待を裏切って農商務省の調査団に加わって樺太に渡るというようなことをしてしまうのだ。

画業を職業として選ばなかったのは、「絵を描くことは好きだったが、一生懸命やるというようにはならなかった」ためだった。彼は「絵は好きは好きだが、ただ好きだというだけで、だからどうだというその先はなかった」と言っている。樺太に渡って無欲なアイヌ人を見て、すっかり彼らが好きになってしまった守一は、アイヌ人についてこう書いている。

<彼らは漁師といっても、その日一日分の自分たちと犬の食べる量がとれると、それでやめてしまいます。とった魚は砂浜に投げ出しておいて、あとはひざ小僧をかかえて一列に並んで海の方をぼんやりながめています。なにをするでもなく、みんながみんな、ただぼんやりして海の方をながめている。魚は波打ちぎわに無造作に置いたままで波にさらわれはしないかと、こちらが心配になるくらいです>

無欲なアイヌ人に共感した守一自身は、次のように自分について述懐する人間だった。

<結局、私みたいなものは、食べ物さえあれば、何もしないでしょう。犬もそうだ。食べ物さえあれば、寝そべっているだけで何もしない。あれは、じつにいい>

二十七歳で樺太から戻った守一は、その時の給金をふところに、日暮里、上野桜木町、駒込千駄木町などの下宿を転々としている。下宿では「みみずく」を飼って、自分は安い豚肉を食べ、みみずくにはいい牛肉を食わせたり、枕元に出るねずみを飼い馴らしたり、好きなとき眠り、好きなとき食べ、全く仙人のような生活をしていた。

父守一の後を継いで画家になった娘の榧の著書によると、守一の好き嫌いは実にハッキリしていてその当時はやっていた薩摩琵琶が大嫌いだった彼は、下宿の隣りで薩摩琵琶のお師匠さんがひきだすと、いつでもとび出せるように玄関に下駄を揃えて置いていたという。好きなものには前後を忘れてのめりこむけれども、イヤとなったら徹底して拒否するのが子供の頃からの彼の性癖だったのである。 
 
こうした守一だから、母が亡くなって故郷の付知村に帰ると、製材業をやっている兄の家に転がり込んで居候になるのだ。彼は郷里で過ごした6年間、ずっと筏流しの人夫をしていたと思われているが、本当は人夫をしていたのは2年間に過ぎず、それも冬の間だけのことだった。ほかの時には、彼は兄が飼っていた馬を乗り回したり、近所の鍛冶屋の作業場に入り込んで仕事を覚えたりしていた。自ら語るように彼は郷里での6年間を「ぶらぶらして」過ごしたのだった。

一向に仕事をしようとしない弟に腹を立てた兄は、守一がかわいがっていた馬を売り払ってしまった。彼は、子供のように泣きだし、母が死んだときよりも悲しかったと語っている。この時彼は既に30代になっていたのである。
やがて、美校時代の友人に勧められて上京してからも、彼は斉藤豊作という資産家の友人から金を貰って生活していた。

娘の榧の著書(「モリはモリ、カヤはカヤ:父・熊谷守一と私」)によると、斎藤豊作は埼玉あたりの大地主だったが、クラスではあまり人づき合いがよくなく、守一の友情を喜んでいたらしい。パリから帰ってから、フランス人の奥さんと見合結婚して、しばらく日本にいたが、守一は彼からときどき小遣いを貰っていた。そのうち面倒だからと、月給のように月々40円ずつきめて、数年後、彼が再びフランスに行くまでずっとお金を貰っていたという。

その期間が5,6年に及んだというから、彼は42歳で結婚するまで約12年間、仕事らしい仕事を何もしないで、他人に養われて生きていたことになる。結婚してからは、心がけを改めてちゃんと仕事をしていたかと言えば、相変わらずだった。彼は打ち明けている。
<私は若いころ(註:といっても、彼はすでに40代になっている)、子供が次々とできて何かと金が入用の時期に、仕事が全く手につかなかったことがあります。一年間、一度も絵筆を握らなかったこともある。まわりからやいのやいのといわれ、なぜ仕事をしないんだ、わからないヤツだ、などと盛んにせめたてられましたが、できなかったのです>

彼の一家が、からくも生きのびたのは夫人の実家が豊かだったからだが、夫人との結婚についても意外な事実が隠されていた。

(つづく)